ギリシア その2
第1次ペルシア戦争

 BC492年、ペルシアのダレイオス1世(ダリウス1世)はイオニアの反乱に加担したギリシアのポリスに対する報復のため遠征軍を派遣した。ペルシア艦隊はエーゲ海北部の海岸線に沿って進みタソス島を制圧した。しかし、アトス山沖を通過中に猛烈な嵐にあい進軍は挫折した。また陸から進撃した遠征軍も、マケドニアで夜襲を受け撤退した。

 遠征は失敗したが、ダレイオス1世はギリシアのポリスに降伏を勧告した。大半のポリスは服従したが、アテネとスパルタは降伏を拒否した。

第2次ペルシア戦争

 BC491年、ダレイオスは服従しないポリスを制圧するため軍を動かした。ペルシア軍を先導したのはアテネを追放された元僭主ヒッピアスだった。ペルシア軍はまずエーゲ海の島ナクソスを占領し、続いてイオニアの反乱を支援したエレトリア(Eretria)を征圧した。エレトリア攻略に手間取ったペルシア軍はそこで越冬し、翌BC490年にアテネを攻略するためマラトン(Marathon)に上陸した。

 アテネの将軍ミルティアデス(Miltiades)は重装歩兵を率いて迎え撃った。 数日のにらみ合いを経て戦闘が始まり、2万のペルシア軍と1万のアテネ軍がぶつかった。ギリシア軍は重装歩兵密集陣でペルシア軍を押し返し圧勝した(マラトンの戦い)。

 戦いが終わってエウクレス(Eukles)が完全武装のままアテネまでの35kmを走り、「我ら勝てり」と叫んで息絶えた。この故事を記念して、第1回オリンピック・アテネ大会でマラトンからアテネまでのマラソン競技が行われた。


アテネ兵士192人が眠る塚(ギリシア:マラトン)

第3次ペルシア戦争

 

 

 

 

 








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 ダレイオスは次の遠征準備中に亡くなり、クセルクセス1世が王位を継いだ。BC480年、21万のペルシア軍がテッサロニキから南下してきた。

 アテネとスパルタを中心とするギリシア軍6000人はテルモピュライに布陣した。スパルタ王レオニダス(Leonidas)が指揮する守備隊は奮戦し、海と山に囲まれた隘路でペルシア軍を食い止めた。


ダレイオス1世の墓
(イラン ナクシュ・ロスタム)

 苦戦するペルシア軍は、海岸線を迂回する間道を見つけ、ギリシア軍の背後を突いた。死を覚悟したレオニダスは他のポリスの軍勢を帰国させ、手勢300人だけで戦った。四方から攻め寄せる敵に、槍が折れると剣で、剣が折れると素手で最後の一兵まで戦った(テルモピュライの戦い)。彼の英雄的な死は今も語り継がれている。勢いに乗ったペルシャ軍はアテネを焼き払った。アテネ市民は南のサラミス島へ逃げ込んだ。

 アテネの将軍テミストクレスは海戦に勝負をかけた。サラミスの狭い水道にペルシア艦隊を誘い込んで一挙に殲滅する作戦である。「ギリシア艦隊はサラミスから撤退している」と偽の情報を流し、サラミスに突入してきたペルシア艦隊900隻に、ギリシアの三段櫂船350隻が襲いかかった。身動きが取れないペルシア艦隊は壊滅した(サラミスの海戦)。


レオニダス像(ギリシア:スパルタ)
ペルシア戦争終結

 サラミスの敗戦で戦意をなくしたクセルクセスはペルシアに退却した。しかし、まだ15万のペルシア軍が北方で越冬しており、依然としてギリシアは大きな脅威にさらされていた。年が明けるとペルシア軍は南へ進撃を開始した。アテネはスパルタやコリントスに救援を要請し、スパルタを中心とするギリシア連合軍11万が編成された。両軍はプラタイアで激突し、レオニダスの復讐に燃えるスパルタの活躍でペルシア軍を打ち負かした。

 同じ頃、イオニアのミュカレ(Mykale)にもギリシア軍が上陸し、イオニアを防衛するペルシア軍を攻撃した。ここでもギリシア軍が勝利し、ペルシアはイオニアから撤退した。BC449年、カリアスの和約(Callias)が結ばれ、イオニアのギリシア植民都市は独立しペルシア戦争は終結した。

 サラミスの海戦を指揮したテミストクレスは大いに羽振りをきかせたが、その後陶片追放でアテネを追われペルシアに亡命した。


マラトン古戦場
デロス同盟












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 BC478年にペルシアの再来襲に備えて約200のポリスが集まってデロス同盟を結んだ。ペルシアの海上からの攻撃を防ぐことが目的で、加盟国は艦船を派遣するか、資金提供の義務を負った。最も多くの艦船を保有するアテネが同盟の盟主となった。また、デロス島には同盟の金庫が置かれた。

 BC449年にカリアスの和約が結ばれるとペルシアの脅威は去り、ギリシアに平和な時代が訪れた。同盟の軍事的な意義は失われ、戦闘用の艦船は輸送船に転用された。その結果、同盟加盟国の経済は大きく発展し、文化交流も盛んになった。アテネはペリクレス(Pericles)が指導者となり、パルテノン神殿が建てられ、アテネの民主制が完成した。詩人のアイスキュロスソフォクレス、歴史学者のヘロドトス、哲学者ソクラテスなど名高い芸術家や学者が登場してギリシア文化は絶頂期を迎えた。

【ペリクレスの演説】彼の演説は有名で多くの格言を残した。「あなたの残した功績は石碑に刻まれるものではなく、他人の人生に織り込まれるのだ。 What you leave behind is not what is engraved in stone monuments, but what is woven into the lives of others.」


ペリクレス(ロンドン:大英博物館)
スパルタ

 スパルタは、ドーリア人が建設したポリスで、民主制を採用しない特殊な国だった。スパルタには3種類の身分があり、一番上が征服者であるスパルタ人、その下が自由民であるが参政権のないペリオイコイ、一番下が奴隷のへロット。スパルタは奴隷の人口が多く、少ない市民で奴隷を支配するために、スパルタ人を強くするスパルタ教育を行った。

 赤ちゃんが産まれると長老がチェックし、障害者や虚弱児は捨てられた。7歳になると親元を離れて寄宿舎生活に入り、30歳まで集団生活をする。男同士の団結はものすごく、スパルタ軍の強さの一因となっていた。30歳になると兵役が始まり、家庭を持つことが許された。

 ペルシア戦争ではテルモピュライの戦いやプラタイアの戦いで奮戦しその強さを見せ付けた。デロス同盟の盟主アテネが強大になるとその関係は悪化していった。


スパルタ遺跡
ペロポネソス戦争

 アテネはデロス同盟の資金を勝手に使ったり、同盟から離反する国を攻撃するなど横暴さが目立ち、デロス同盟のポリスは徐々にアテネから離反していった。BC431年、スパルタやコリントスはペロポネソス同盟を結成し、アテネとの戦いを始めた(ペロポネソス戦争)。

 ペリクレスは住民をアテネの城内に籠城させ、海上から敵の本国を攻撃する作戦をとった。しかし、城内では疫病が蔓延し市民の1/3が死亡、ペリクレスも病死した。アテネは起死回生を狙ってシチリアに派兵したが失敗しアテネは降伏、デロス同盟は解体した(BC404年)。

 アテネに代わって覇権を握ったスパルタも長くはなかった。アテネ、テーベ、コリントスが同盟して戦いを挑み、レウクトラの戦い(Leuktra)でスパルタを破った(BC371年)。ギリシアの覇権はテーベに移るが、すぐにその覇権も失われ、ギリシアは慢性的な戦争状態に陥った。

 この頃、北方のマケドニアが強力になり、BC338年にフィリッポス2世がギリシアに侵入した。アテネとテーベは迎え撃ったがカイロネイアの戦いで敗れ、マケドニアによるギリシアの支配が始まった。


エーゲ海とコリンティアコス湾を結ぶコリントス運河
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ギリシア その1                    マケドニア

【参考資料】
ギリシア人の物語T 塩野七海 新潮社