ブーディカ(Boudica)
ブリトン人

 BC55年、ユリウス・カエサルはローマ人として初めてブリテン島(イギリス)に上陸した。AD43年、第4代皇帝クラウディウスは本格的にブリタニアに侵攻し、ブリトン人(ケルト人の一派)の拠点カムロドゥヌム(コルチェスタ)を占領した。そしてブリタニアをローマの属州とし、ローマの支配を広げていった。

 ブリタニア東部にイケニ族の国があった。ここはまだローマの直接支配が及ばず、ローマと同盟を結んで平和に暮らしていた。。ブーディカ(Boudica)はそこの女王だった。

 しかし、AD60年に夫プラスタグス王が亡くなると、二人の娘の王位継承は認められず、ローマは領土や財産を没収した。ブーディカはローマの侵略に必死に抵抗したが、縛られて鞭で打たれ、更に2人の娘は辱めを受けた。

 この仕打ちに対しブーディカは激しく怒り、周辺部族と連合して大規模な反乱を起こした。


ブーディカの蜂起(コルチェスター城博物館)

蜂起

 

 

 

 

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 西暦60年、ローマ軍がウェールズに遠征した。その隙を突いて、ブーディカは近隣の部族とともに蜂起した。 反乱軍はローマの退役軍人が築いたカムロドゥヌム(コルチェスター)を攻撃し破壊した。

 続いてロンディニウム(ロンドン)が襲われた。この町は20年前に建設されたばかりの新しい町で、多くの商人や旅行者が訪れていた。ローマはこの町も守れず、住民は虐殺された。反乱軍は続いてヴェルラミウム(セント・オールバンズ)に攻め入った。

 攻撃された3都市は廃墟と化し、7〜8万人ものローマ人が惨殺された。ブリトン人は捕虜を奴隷にせず、ことごとく絞首刑や火あぶりで虐殺した。


焼け落ちるコルチェスターのクラウディウス神殿

ワトリング街道の戦い

 ウェールズに遠征していたローマ総督スエトニウスは、反乱の知らせを聞き、急遽1万人の兵を率いてワトリング街道を下った。一方ブーディカは、2人の娘を脇に従え、23万人まで膨らんだ反乱軍を率いて北上した。

 反乱軍は数で圧倒していたが、貧弱な装備の寄せ集めの軍隊だった。指揮系統もなく、戦闘経験豊富なローマ軍とは比べようもなかった。スエトニウスは反乱軍の数の優位を封じるために、街道の狭い部分を戦場に選んだ。

 戦いの口火が切られた。反乱軍は草原を一気に横切り、狭い所に殺到してきた。そして、押し合いへし合いの身動きのとれない状態になった。ローマ軍はじっと動かず、押し寄せる反乱軍にピルム(槍)を投擲した。反乱軍の動きが止まった。追い討ちをかけるように、2回目のピルム攻撃が行われた。ローマ軍は通常2本のピルムを携えていたのである。この攻撃で数千人が倒れ、反乱軍は出鼻をくじかれ戦意を喪失した。


ブーディカ像(ロンドン ウェストミンスター橋)
敗戦

 槍を使い果たすと、ローマ軍はV字編隊で突撃した。身動きが取れない反乱軍は一方的に8万人が殺戮され、勝負は決した。ローマ軍の犠牲者はわずか400人だった。

 ブーディカは毒をあおったとも病死したとも言われている。

 以後、ローマの支配は410年まで続いた。ローマが撤退すると、再びケルト人の天下となった。この頃、アングロ・サクソン人の侵入を食い止めた英雄アーサー王の伝説が生まれた。しかし平和は長く続かず、450年頃にはアングロサクソン人の国家が誕生し、ケルト人はウェールズやスコットランドに追い出された。


コルチェスター城(現在は博物館となっている)
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【参考資料】
ウィキペディア(Wikipedia)