イギリスの歴史 その2
ヘンリー8世
ロンドン塔のアンブーリン(Anne Boleyn in the Tower)
ロラン美術館 オータン フランス(Musee Rolin, Autun)

 1501年、スペイン女王イサベルの娘キャサリンはイギリスの港に降り立った。16歳の彼女はキャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)と呼ばれ、ヘンリー7世の長男アーサーの花嫁となった。しかし、数ヵ月後にアーサーは急死してしまう。

 スペインとの関係を維持したいヘンリー7世は、11歳の次男にキャサリンを妻にするように説得し、ローマ教皇から特別に許可をもらった。1509年、王位を継承した次男のヘンリー8世は喪中のキャサリンと結婚し、二人の間に娘メアリーが生まれた。しかし、彼はキャサリンの侍女アン・ブーリン(Anne Boleyn)に夢中になっていく。

 アンは執拗に迫るヘンリーをじらし、「Queen or Nothing 妃にしないのなら、別れます」と迫った。キャサリンとの離婚はローマ教会に拒絶されたが、アンを忘れられないヘンリーは、ローマ教会と決別して強引にアンと結婚した。アンは妊娠4ヶ月だった。

 王妃となったアンはエリザベスを産んだ。アンは先妻キャサリンの子メアリーに対して、エリザベスに臣従するように脅した。メアリーは「妹としては認めるが、王女としては認めない」と拒否、激怒したアンは、メアリーを徹底的にいじめた。

 アンは2人目の子供を身ごもるが流産してしまう。男児誕生を待ち望むヘンリーは失望し、アンへの情熱も冷めていった。3年後、アンは不貞の罪でロンドン塔に幽閉され処刑された。その直後にヘンリーはアンの侍女ジェーン・シーモアと結婚し、後継者エドワード6世が生まれた。

エリザベス1世

 

 

 

 

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アン・ブーリンやエリザベスが幽閉されたロンドン塔

 ヘンリー8世が亡くなるとエドワード6世が即位するが、わずか15歳で死亡し、アンにいじめられたメアリーがイングランド女王となった(メアリーチューダー)。熱心なカトリック信者だった彼女はローマ教会に復帰すべくプロテスタントの指導者を次々に処刑した。このため血塗れのメアリー(ブラッディ・メアリ)と呼ばれ、カクテルの名前にもなっている。

 メアリーはスペイン国王フェリペ2世と結婚したが在位5年で急逝し、アン・ブーリンの娘エリザベス1世が女王に即位した(1558年)。エリザベスは父の意志を受け継いで再び首長令を発令し、イギリス国教会を復活させた。

 しかし国内は不安定で、スコットランド女王メアリー・ステュアートとの王位継承騒動が起こった。

メアリー・ステュアート
(Mary Stuart)


スコットランドの首都エディンバラ城

 メアリー・ステュアートは、1542年にスコットランド王ジェームズ5世の長女として誕生した。その6日後、ジェームズ5世はイングランドのヘンリー8世に敗れて戦死し、生まれたばかりの彼女がスコットランド女王になった。しかし、イングランドの脅威は続き、6歳の時にフランスに逃れた。フランス王アンリ2世は彼女を大切に扱い、息子のフランソワと結婚させた。

 エリザベスがイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「メアリーこそがイングランドの王位継承権者である」と抗議した。彼女の祖母はヘンリー8世の姉で、庶子のエリザベスより血筋がよかった。しかし、アンリ2世は突然事故死してしまう。夫がフランス王を継ぎ、彼女はフランス王妃となるが、1年後に夫は病死し、子供のいないメアリーはフランスを離れてスコットランド女王に復帰した。

 メアリーの転落の人生は更に続く。従弟のダーンリーに一目惚れして結婚するが半年で破綻、こともあろうに秘書のリッチオに惹かれていく。頭にきたダーンリーは、彼女の目の前でリッチオを暗殺した。それでも彼女は息子ジェームズを出産し、今度は貴族のボスウェルと関係した。

 
メアリが幽閉されたカーライル城(Carlisle)

 1567年、夫のダーンリーが暗殺された。この事件はボスウェルの関与が噂されたが、彼女はボスウェルと結婚した。あきれた反ボスウェル派の貴族達は反乱を起こし、メアリーを退位させて1歳のジェームズを王位につけた。スコットランドに居場所がなくなったメアリはイングランドに亡命、エリザベスは彼女を夫殺しの容疑者として幽閉した。

 スコットランドやイングランドでは、カトリックとプロテスタントの対立が続いていた。メアリーは熱心なカトリック信者だったため、反エリザベス派のカトリック貴族が彼女の下に集まってきた。彼らはメアリーをイングランド女王に擁立しようと画策するがいずれも失敗した。

 1586年、メアリーが加担したとされるエリザベス暗殺計画が発覚した。メアリはついに逮捕され死刑が宣告された。エリザベスは処刑することをためらったが、翌年に処刑に同意した。亡命から19年が経ち、波乱の44歳の生涯は幕を閉じた。この事件はイングランドの陰謀であるともいわれている。

アルマダの海戦(Battle of Armada)


無敵艦隊の敗北(Wikipedia)

 メアリーが処刑されると、スペインとの関係は急速に冷え込んだ。その背景には、カトリックのスペインと新教国イングランドの宗教対立があった。エリザベスはスペインに反旗を翻した新教国オランダの独立を公然と支援した。そして何よりもスペインをイライラさせたのは、海賊行為を行う私掠船(しりゃくせん)の存在だった。私掠船は、銀を満載した新大陸からのスペイン船を襲い銀を掠奪した。しかもエリザベスは海賊行為を公認していた。

 フェリペ2世はイギリス侵攻を決意した。1588年、リスボンに集結した130隻のスペイン無敵艦隊は北上した。迎え撃つイギリス艦隊は小型船中心の197隻、海賊上がりのドレークが指揮する荒っぽい海軍だった。アマルダとはスペイン無敵艦隊のこと(Spanish Armada)。

 両艦隊はドーバー海峡で遭遇し、イギリス艦隊は多くの敵船に打撃を与えた。苦戦したスペイン艦隊は、補給を受けるためカレー沖に停泊した。深夜、イギリス艦隊は8隻の燃え盛る火船を突入させた。あわてたスペイン艦隊はばらばらに動き出し、イギリス艦隊の集中砲火を浴びた。北海方面に逃れたスペイン艦隊を今度は嵐が襲った。スコットランドの北を回ってようやくスペインに戻れた艦船は54隻で、死傷者は2万を数えた。無敵艦隊の壊滅はスペイン衰退の一因となった。

ステュアート朝(Stuart)

 

 

 

 

 

 

 

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ジェームス1世(Wikipedia)

 エリザベスの時代(1558〜1603年)がイングランドの黄金期で、国力は充実し、芸術や文化が栄えた。1600年には東インド会社が設立され、イングランドが世界貿易の中心になっていった。 この時代にシェイクスピアが現れ多くの戯曲を残した。

 1603年、独身を通したエリザベスには世継ぎがなく、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝を開いた。彼はメアリーステュアートの息子である。イングランドとスコットランドは、共通の王とそれぞれの政府・議会を持つ同君連合体制をとった。

 17世紀に入るとアメリカへの進出が本格化し、1620年にはメイフラワー号がマサチューセッツ州プリマスに入り、永久移民が始まった。社会的には地主階級のジェントリが成長し、議会で勢力を拡大した。ジェームスは王権神授説を唱えてこれを押さえ込んだ。

彼は、国旗ユニオンフラッグ(ユニオンジャック)を制定した。このデザインは、イングランドのセント・ジョージ・クロス(普通の十字)とスコットランドのセント・アンドリュー・クロス (Xの十字)にアイルランドのセント・パトリック・クロス(白地に赤のクロス)を重ねたものになっている。

 【王権神授説】 「王権は神から授かったもので、人民によって左右されない。王は何をやっても人民は反抗できない」という思想。

ピューリタン革命(Puritan Revolution)

ウェストミンスター宮殿前のクロムウェル像

 次のチャールズ1世も、王権神授説を唱えて議会と対立した。1642年、ついに王党派と議会派の間に戦いが始まる。当初、国王派が有利だったが、ピューリタンの信仰に燃える鉄騎隊を率いたクロムウェル(Oliver Cromwell)の活躍で議会派が勝利し、チャールズ1世は処刑された。これをピューリタン革命(清教徒革命)といい、イングランドは王政が廃止され共和制になった。

 クロムウェルは、王党派の殲滅を理由にアイルランドやスコットランドに侵攻した。1651年には、オランダ船の出入を禁止する航海法を発布し、アジアからの富を満載してくるオランダ船を襲撃し始めた。翌年に第一次英欄戦争が発生、その後両国は3次にわたる戦争を戦った(いずれも海戦)。オランダとの戦いが一段落すると、今度はスペインを攻撃し、ジャマイカなど西インド諸島を奪い取った。クロムウェルは、終身護国卿となって軍事独裁政治をしき、市民の不満は高まっていった。

【ピューリタン(Puritan)】 イギリス国教会の改革を唱えたグループ。厳格な人、潔癖な人を指す。

名誉革命(Glorious Revolution)


ドイツ ハノーヴァー(中央駅付近の公園)

 クロムウェルの死後、フランスに亡命していたチャールズ2世が王位に就き、王政に戻った。クロムウェルは反逆者として墓を暴かれ、妻子は処刑された。

 次のジェームズ2世はカトリックの復活と絶対主義再建を計った。これに危機感を抱いた議会は、1689年に王を退位させ、娘メアリ2世とその夫のオランダ総督ウィリアム3世を王位に就けた。この革命は血が一滴も流されなかったため名誉革命と呼ばれる。議会は国民の生命や財産の保護を定めた権利の章典を制定した。

 ウィリアムの死後、メアリの妹のアン(Anne Stuart)が王位に就いた。アンが即位するとスペイン継承戦争が本格化し、オランダやオーストリアと同盟して、フランス・スペインと戦った。イギリス艦隊はスペインのジブラルタルを陥落させ、現在もジブラルタルはイギリス領になっている。北アメリカではでフランスと植民地戦争を繰り広げた。その戦いはアン女王戦争と呼ばれる。1707年、イングランドとスコットランドが合体して大ブリテン王国ができ、アンは最初の君主になった。

 アンの死後スチュアート朝は絶え、遠縁のハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として迎えられ、ハノーヴァー朝が始まった。彼はドイツ人で英語が分からず、政務は大臣が行う責任内閣制が導入された。 「王は君臨すれども統治せず」

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【参考資料】
図説 イギリスの歴史  指 昭博 河出書房新社