ヴェネツィア
ヴェネツィア
(Venezia)

ヴェネツィアの運河

 英語でヴェニス(Venice)、フランス語でヴニーズ(Venise)、ドイツ語でヴェネーディヒ(Venedig)と呼ばれる。 日本語ではベネチア、ベニスなどいろんな表現がされているが、イタリア語のヴェネツィアと表記することが多い。

 ヴェネツィアは、アドリア海のヴェネツィア湾にできたラグーナ(潟)と呼ばれる湿地帯に作られた町である。5世紀のはじめアラリックに率いられたゴート族がローマの各都市を次々と襲った。各地の住民は避難場所としてこのラグーナを選び、421年に町が建設された。

 452年にはアッティラ率いるフン族が来襲する。しかし、ラグーナのお陰でヴェネツィアは難を逃れた。 そして697年に初代総督を選出し共和国がスタートする。このヴェネツィア共和国は1797年にナポレオンによって滅ぼされるまで1100年続くことになる。

 899年にはマジャール族(ハンガリ人の祖先)が押し寄せたが、この時もラグーナがヴェネツィアを守った。町は包囲されたが、海の知識がないマジャール族を海軍力で打ち負かし撃退したのである。

サン・マルコ
サン・マルコ寺院のサン・マルコと本を開くライオン

 「マルコによる福音書」の著者マルコ(San Marco)がローマへ向かう途中、ヴェネツィアに立ち寄った。そこに天使が現れ、「私の福音者である汝に平和を。この地で汝の体は休まるであろう」と祝福した。この言葉は、ヴェネツィアの紋章「本を開くライオン」のライオンが持つ本の中に記載されている。

 時代が過ぎて828年、ヴェネツィア商人がエジプトのアレクサンドリアからマルコの遺体を盗んで来て、町の守護神として教会に納めた。この教会がサンマルコ寺院である。

そして、マルコを象徴するライオンが「本を開くライオン」としてヴェネツィアの紋章となった。

ヴェネツィアの発展


ロードス島に残るヴェネツィアの要塞

 ヴェネツィアは東ローマ帝国神聖ローマ帝国にはさまれ、その間の貿易によって発展した。10世紀後半からは東地中海やスペイン、シチリアのイスラム諸国とも交易を拡げた。11世紀には、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として帝国内での貿易特権を得た。十字軍遠征が始まるとアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどのイタリアの海事都市が繁栄した。

 12世紀のヴェネツィアは、南イタリア・シチリアを支配するノルマン王国ビザンツ帝国、北は神聖ローマ帝国、ハンガリー王国に囲まれた複雑な国際関係の中にあった。神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世のイタリア侵攻に対して、ヴェネツィアやミラノなどの北イタリアの都市がロンバルディア同盟を結成し、1176年、レニャーノの戦い(Legnano)でフリードリヒ1世を破った。

共和政へ
コンスタンティノープルから略奪した4頭の馬
(サン・マルコ寺院)

 1204年の第4回十字軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略する。十字軍に協力したヴェネツィアは、コンスタンティノープルから多くの財宝を略奪した。また、クレタ島、エウヴォイア島、コルフ島などのエーゲ海に多くの海外領土を手に入れた。

 13世紀から14世紀にかけて中央アジア、中国、インドへの安全な道が開け、ヴェネツィア商人は世界中を駆けめぐった。1271年にはマルコ・ポーロが、陸路への旅に出発している。

 東西交通路の安全を保障していたが滅び、そのあとをイスラム勢力が埋めるようになると、ヴェネツィアやジェノヴァの活動範囲は元の地中海に限定されるようになり両者の対立は激しくなった。1380年、ヴェネツィアはキオッジャの戦いジェノヴァを破り、アレクサンドリア経由で持ち込まれる香辛料の貿易を独占した。

オスマントルコとの戦い
クレタ島に残るヴェネツィアの要塞

 15世紀になると東方からオスマントルコが押し寄せてきてヴェネツィアと対立した。1453年にはコンスタンティノープルが陥落、1470年にエウヴォイア島(ネグロポンテ)が奪われた。ヴェネツィアはエーゲ海やギリシアから後退をよぎなくされた。そんな中、1489年にキプロス島を支配下においた。

 この頃すでに大航海時代が始まっていた。1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開拓さると、ヴェネツィアを取り扱う香辛料は1/4にまで激減した。

 貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移っていた。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処したが 、海洋国家としての地位は回復できなかった。

 そして、1538年にはプレヴェザの海戦でオスマン海軍に敗れ、1570年にはキプロス島を失った。1571年のレパントの海戦では、ヴェネツィアを中心とするヨーロッパ艦隊はトルコ艦隊を破った。しかし度重なるトルコとの戦いで急速に衰え、1669年には25年におよぶの戦いの末、最後の地中海の拠点クレタ島をトルコに奪われた。

滅亡


ヴェネツィアの攻撃によって爆発炎上したパルテノン神殿

 1683年、第2次ウィーン包囲で敗れたオスマン帝国に対して、ヴェネツィアはオーストリアと神聖同盟を結んで反撃した。ギリシアに侵攻したヴェネツィア軍はアテネを砲撃した。この時、火薬庫として使われていたパルテノン神殿に砲弾が命中し、神殿は破壊された。ヴェネツィアはこの戦争でギリシアを奪還することはできず、1699年にカルロヴィッツ条約が結ばれ僅かの領土しか得ることができなかった。

 1714年、オスマン帝国との最後の戦争が勃発した。この戦争にオーストリアも参戦し、ペーターヴァルダインの戦いやベオグラード包囲戦でオスマン軍を破った。1718年にパッサロヴィッツ条約が結ばれ、オーストリアは領土を著しく拡大したが、ヴェネツィアは芳しい成果をあげることができなかった。これ以降、ヴェネツィア共和国は衰退していった。

 1797年、敗走するオーストリア軍を追ったナポレオンはヴェネツィアに迫ってきた。ヴェネツィア議会は降伏を決議し、ヴェネツィア共和国は消滅、オーストリア領となった。その後オーストリアは普墺戦争プロイセンに敗れ、ヴェネツィアはプロイセンとともに戦ったイタリア領になった。

 1987年、ヴェネツィアとその潟が世界遺産に登録された。