ドイツ帝国
ドイツ騎士団
マルボルク城にある騎士団長像
左端がヘルマン・フォン・ザルツァ(Hermann von Salza)

 ドイツ北部からポーランド北部にかけてのバルト海沿岸はドイツ語でプロイセンと呼ばれ、かってプロイセン王国があった。この王国は強大な軍事力を背景にヨーロッパの大国にのし上がり、1870年の普仏戦争ではナポレオン3世のフランスを撃破した。プロイセン国王はパリのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として戴冠しドイツ帝国が誕生した。ドイツ帝国は更に強大な国家に発展するが第一次世界大戦で敗れ、プロイセン王国も消滅した。まさに、「剣によって立つ者は剣によって滅ぶ」の言葉通りになった国家だった。

 プロイセン王国のルーツはドイツ騎士団である。パレスチナを追われたドイツ騎士団はハンガリー王に招かれハンガリーに拠点を構えた(1211年)。しかし、騎士団長のヘルマン・フォン・ザルツァは騎士団の国を作ろうと画策したためハンガリーから追放された(1225年)。行き場の失った騎士団はポーランド王に招かれ、バルト海沿岸の異教徒を改宗させる任務に就いた。

 騎士団はポーランドのマルボルクを拠点に異教徒と戦って領土を拡大し、14世紀に最盛期を迎えた。しかし、騎士団と戦闘を繰り返していたリトアニアがキリスト教国に改宗してポーランド・リトアニア王国が誕生した(1386年)。リトアニア相手に戦っていた騎士団は孤立し、タンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア王国に敗れた。騎士団はポーランド王の臣下となった(1410年)。

プロイセン王国
ホーエンツォレルン城

 1525年、ホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが騎士団長に選出された。彼は騎士団を解散し、ポーランド王から東プロイセンのケーニヒスベルクにプロイセン公として封じられた。彼はポーランド王の甥だった。

 1618年にプロイセン公の跡継ぎが途絶え、神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク選帝侯(ホーエンツォレルン家宗家)がプロイセン公を兼ねた。プロイセンの宗主国であるポーランドはスウェーデンやロシアの圧力で弱体化し、1660年にプロイセン公はポーランドからプロイセン公国として独立した。

 一方、神聖ローマ帝国の盟主ハプスブルグ家も30年戦争で没落し、帝国を構成していた領邦はそれぞれ国家として独立した(ヴェストファーレン条約)。プロイセン公国は神聖ローマ帝国の領邦ではなかったが、1701年にプロイセン王国となり、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世がプロイセン国王フリードリヒ1世として即位した。首都はケーニヒスベルクである。

プロイセンの発展


マリア・ヴァレフスカ(Maria Walewska)

 1740年、第3代プロイセン王にフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が即位した。彼はオーストリア継承戦争7年戦争など困難な闘いに勝利してプロイセンをヨーロッパの強国に押し上げた。また、エカチェリーナ2世(ロシア)によるポーランド併合の動きを封じるため、オーストリアと組んでポーランド分割を提唱した。そして、プロイセン、オーストリア、ロシアの3国によるポーランド分割が行われた(1772年)。この3国によるポーランド分割はその後も行われ、ポーランドは消滅しプロイセンは領土を拡大した。

 1806年、ナポレオンの侵攻でプロイセン軍は大敗しベルリンが占領された。この国家崩壊の危機に、国王の妻ルイーゼ王妃は少しでも有利な条件で講和するため奔走した。 その結果ティルジットの和約が結ばれ、プロイセンは領土の半分を失ったが滅亡は免れた。
また、地図から消え去ったポーランドは、ナポレオンに愛されたマリア・ヴァレフスカの努力によって旧領の一部がワルシャワ公国として復活した。


ルイーゼ王妃

 ナポレオンが没落すると、プロイセンは以前の勢いを取り戻した。一方、ワルシャワ公国はロシアに占領されポーランドは再び消滅した。

ビスマルクとモルトケ
ホルシュタインの町キール

 1861年にヴィルヘルム1世(Wilhelm)が即位し、首相に47才のオットー・フォン・ビスマルクが就任した。ビスマルクは力によるドイツ統一を目指し、「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」との鉄血演説を行った。彼は軍備を拡張し、参謀本部総長にモルトケを任命した。ビスマルクとモルトケはプロイセンの政治と軍事の両輪となった。

 プロイセンはデンマークとの間に領土問題を抱えていた。デンマークが統治していたシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国には多くのドイツ人が住んでおり、彼らはドイツへの編入を望んでいた。しかし、デンマークは両公国を併合する動きをみせた。これにビスマルクは反発し、オーストリアを誘ってデンマークに侵攻した(1864年)。

 モルトケの的確な軍事作戦によってプロイセンは勝利し、プロイセンはシュレスーヴィヒ公国を、オーストリアはホルシュタイン公国を獲得した。

普墺戦争

 

 

 

 

 

 

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 ナポレオンによって解体された神聖ローマ帝国は、約40の君主国からなるドイツ連邦になった。しかし、列強の進出に対して小国家の集まりでは対抗できず、住民は統一したドイツ国家の出現を望んだ。ドイツ統一の主導権をめぐってオーストリアと急速に力をつけたプロイセンが対立した。

 オーストリアとの戦争を覚悟したビスマルクはナポレオン3世と会談し、フランスの中立を約束させた。イタリアとは戦争協力に関する同盟を結んだ。モルトケは陸軍を強化し、軍隊の迅速な移動を可能とするため鉄道を整備した。また、前線と参謀本部との情報交換を密にするため電信網も張りめぐらした。

 1866年、シュレースヴィヒ駐屯のプロイセン軍がホルシュタインに侵攻し、普墺戦争が始まった。ドイツ連邦議会はプロイセンを非難、プロイセンはこれに反発してドイツ連邦を脱退した。オーストリア側にはバイエルン、ザクセン、ヘッセンなどが就いたが、北ドイツの小邦やイタリアはプロイセンとともに戦った。機動力に優るプロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで完勝し、7週間で戦争は終結した。

 この戦争の結果、プロイセンはホルシュタインを獲得し、ドイツ統一はプロイセン中心にオーストリアを除外して進められることになった。イタリアはオーストリアからヴェネツィアを獲得した。一方、オーストリアはオーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させ、ドナウ河流域の統治に専念することになった。

普仏戦争
ナポレオン3世が捕虜になったセダンの町

 ドイツ統一の動きにフランスは危機感を感じていた。ビスマルクはドイツ民族統一のためにはナショナリズムの高揚が必要で、フランスとの戦争は避けられないと考えていた。そんな折に、スペイン王位継承者にホーエンツォレルン家のレオポルトが候補に挙がった。彼はプロイセン王の親戚でビスマルクは支持したが、フランスは強く反対した。結局レオポルトは王位を辞退したが、フランスは「将来もホーエンツォレルン家の人間がスペインの王位継承者にならないように」と要求した。フランス大使はバート・エムス(Bad Ems)で静養中のヴィルヘルム1世と会談したが決裂し、その経緯をビスマルクに打電した。

 ビスマルクは非礼なフランス大使が国王を激怒させたように電報を改ざんして新聞に公表した(エムス電報事件)。かねてからくすぶっていた両国の世論は一気に戦争に傾いた。ドイツ諸邦の参戦を恐れたフランスはプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦はプロイセン側に立って参戦し普仏戦争が始まった(1870年)。

 プロイセンとドイツ連邦軍は国境を越えてきたフランス軍を追い返し、セダンの戦いでは10万人のフランス兵と皇帝ナポレオン3世を捕虜にした。全ドイツで戦った戦争はプロイセン側の圧倒的勝利に終わった。

ドイツ帝国の興亡


ビスマルクの更迭

 1871年、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿で戴冠式を行いドイツ皇帝に即位した。ここにプロイセン王が皇帝となるドイツ帝国が誕生した。また、アルザス・ロレーヌ地方がドイツ領となった。フランスは第2帝政が終わり、第3共和政に移行した。

 ビスマルクは、フランスを孤立させるためロシアやオーストリアと同盟関係を築いた。また、1882年にはオーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。このフランス包囲網のことをビスマルク体制という。外交では海軍力を増強してアフリカ(ナミビア、タンザニア、ルワンダ、ブルンジ、カメルーン、トーゴ)、南太平洋(マーシャル諸島、マリアナ諸島、ニューギニア、ビスマーク諸島、サモア)、中国(山東半島)などを植民地として獲得した。

 1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクを更迭、皇帝による親政を開始した。彼は積極的に帝国主義政策を実行し、イギリスやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深めた。そして第一次世界大戦に突入していった。

 1918年、ドイツは4年以上にわたる消耗戦に敗れ第一次大戦は終結、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。ドイツ帝国は消滅し、海外植民地も全て失った。

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【参考資料】
ドイツ統一戦争 望田幸男 教育社
ドイツ参謀本部 渡部昇一 祥伝社