エジプト

初王朝時代


ナイル川(ルクソール付近)

 ギリシアの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と言ったように、ナイル川はエジプトに豊富な水と沃土をもたらした。その流域には多くの人々が暮らし、川の氾濫時期を知るために正確な暦を持ち、氾濫後に農地を復元するために測地術が発達した。エジプトの暦はローマでユリウス暦に発展し、測地術はギリシアの幾何学に影響を与えた。

 エジプトは周囲を海と砂漠に囲まれ、メソポタミアのような民族の侵入はなく、静かに独自の文化が発達した。メソポタミアやギリシアとの交流も盛んで、シュメール人の文字をもとに象形文字ヒエログリフが作られた。

 ナイル川を治水するためには住民を統率する指導者が必要で、村落(ノモス)は次第に強いものに統合されていった。そして、ナイル川下流の下エジプトと上流の上エジプトの2つの国ができ、王(ファラオ)による神権政治が行われた。BC3100年頃、上エジプトのナルメル王が上下エジプトを統一し、統一国家エジプトが誕生した。これが第1王朝で、古代エジプトではこれ以降2800年にわたって30の王朝が交代した。

古王国時代

 第3王朝から第6王朝までを古王国時代といい、安定した平和な時代が続いた。首都はメンフィス(Menphis)で、シナイ半島や金が採れる南のヌビアにも進出していった。貿易も活発で、アフリカ内陸部やソマリアと盛んに交易した。ピラミッドが大々的に建設されたのはこの時期で、第3王朝のジェセル王の階段ピラミッドが最初に建設され、第4王朝にはギザに大規模なピラミッドが建設された。

ギザの3大ピラミッド(左からクフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッド)
反対側から見る(左がカフラー王のピラミッドとスフインクス、右がクフ王のピラミッド)

 第5王朝になるとピラミッドの建設は下火になり、代わりに太陽神殿が建設されるようになった。第6王朝の末期には各地に諸侯が乱立して国は分裂状態となった。この状態は第10王朝まで続いた。

中王国時代
ルクソール神殿(右側にあったオベリスクはパリのコンコルド広場に置かれている)

 BC2060年、テーベ(現在のルクソール)のメンチュヘテプ2世(Mentuhotep)がエジプトを再統一し第11王朝を開いた。その後有能な君主が現われて平和な時代が続き、大規模な葬祭殿や神殿が建てられた。

【エジプトの宗教】 アメン神は上エジプトの主神だったが、後に太陽神ラーと合体して国家神アメン・ラー神となった。もう一つの重要な神がイシスの兄で且つ夫のオシリス神である。「人間は死ねば誰もがオシリス神となって復活する」という分かりやすい思想が人々に受け入れられた。オシリスとイシスの子供がハヤブサの頭を持ったホルス神

【アンモニアとアンモナイト】 アメン神殿には大勢の人がラクダに乗って巡礼にやってきた。神殿のまわりにはラクダの排泄物がたまり、塩に似た結晶(塩化アンモニウム)がたくさんできた。これは「アメン神の塩」という肥料となり、その刺激臭がアンモニアと呼ばれた。また、アンモナイトは、ギリシアの神アンモン(=アメン)の頭にある羊の角に似ているからそう呼ばれた。ヨルダンの首都アンマンもアメン神に由来しているという説もある。

 BC1730年頃、シリアから遊牧民ヒクソス(Hyksos)が馬と戦車で侵入し、アヴァリスを拠点とする王朝を作った(第15、16王朝)。ヒクソスは1世紀にわたってエジプトを支配し、クレタと盛んに交易した。ヒクソス人は徐々にエジプトに同化していった。

新王国時代

 





 

 

 

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カルナック神殿(エジプト:ルクソール)

 ヒクソスの力が衰えると、テーベにエジプト人による第17王朝が興った。この王朝は対ヒクソス戦争を開始した。BC1565年、イアフメス1世は奇襲によってヒクソス軍を破り、エジプトから駆逐した。これが第18王朝で、エジプトが最も栄えた新王国時代が始まった。この王朝の王達はルクソールの王家の谷に葬られている。イアフメスの子アメンヘテプ1世はカルナック神殿を造営し、孫のトトメス1世はシリアやヌビアのクシュ王国にも勢力を拡げた。

 BC1479年、幼いトトメス3世が即位するが、継母ハトシェプストが共同統治者となり全権を掌握した。彼女は戦争を好まず、平和外交によってエジプトを繁栄させた。
 次のトトメス3世は、周辺諸国に遠征してエジプト史上最大の帝国を築いた。特に、カデシュ王率いるカナン連合軍を破ったメギドの戦いが有名である。世界終末戦争が行われるハルマゲドンとはメギドの丘という意味。


ハトシェプスト女王葬祭殿(王家の谷)
アマルナ改革
アマルナ美術の代表作ネフェルティティの胸像
(ベルリン国立博物館)

 エジプトが戦争に勝利すると、王はアメン神に感謝して多くの寄進を行った。その結果、アメン神官達は大きな勢力を持ち、王位すら左右するようになった。

 このアメン神官の勢力を抑えるためアメンホテプ4世イクナートン)が立ち上がった。BC1346年、テーベからアマルナに都を移し、唯一神アテンのみを信じる一神教を強要した。アテンは太陽円盤の形で数多くの手を持った姿で描かれている。そしてアメンホテプ4世自身も神として崇拝するよう説いた。

 しかし改革が急だったため神官達の激しい抵抗にあい、次のツタンカーメンの時に首都はテーベに戻った。改革は失敗したが、宗教や権威にとらわれない写実的なアマルナ美術が生み出された。

【古代エジプトの三大美女】 ネフェルティティ(アメンホテプ4世の妻)、ネフェルタリ(ラムセス2世の妻)、クレオパトラ

ラムセス2世

 

 


ライトアップされたアブシンベル第1神殿(ラムセス2世)

 BC1290年、エジプトで最も有名なラムセス2世(Ramses)が即位した。彼は66年間在位し、90歳で亡くなるまでに111人の息子と69人の娘をもうけた。第1王妃が美人のネフェルタリ(Nefertari)で、アブシンベル小神殿に祭られている。

 ラムセス2世はヒッタイトが勢力を伸ばしてきた北シリアに侵攻した。ヒッタイト王ムワタリはすぐに反撃し、BC1285年にカデシュの戦い(Kadesh)が起こった。エジプト軍は初戦で有力な軍団を撃破されて苦戦するが、ラムセス2世の奮闘によって辛くも勝利を収めた。しかし、兵力の消耗が激しいため兵を引き、その後両国は史上初の平和条約を結んだ。彼はヒッタイト王女を妃に迎えた。

 また、エジプト南部のヌビアも平定した。これを記念して造営されたのがアブ・シンベル神殿である。この神殿はアスワン・ハイ・ダムの建設の際、水没の危機にさらされたが、ユネスコが神殿を移転して危機を救った。これを機に世界遺産の制度ができた。

 彼の治世中に、出エジプト記に登場するモーゼが、イスラエル人奴隷を連れてエジプトを脱出したといわれている。

末期王朝時代




 

 

 

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アレキサンドリア

 その後エジプトは徐々に衰退し、シリア・パレスチナから撤退、シナイ半島も喪失した。BC1085年、混乱するエジプトを再統一したのが軍司令官スメンデスで、タニス(現在のサン・イル・ハガル)を中心に第21王朝を開いた。 しかし、上エジプトはテーベのアメン神官団が支配し、国内は分裂状態になった。まもなくリビア人の侵入が始まり、エジプトの文化は破壊されていった。これを救ったのがヌビアのクシュ王国のピイで、BC728年に第25王朝を開いた。ヌビア人の王は70年間エジプトを支配し、エジプトの復興に尽力した。彼らはブラックファラオと呼ばれている。

 BC7世紀になるとオリエントで勢力を伸ばしていたアッシリアがエジプトに侵攻してきた。BC673年、アッシリアの傀儡政権26王朝が始まった。BC612年にアッシリアが滅亡するとエジプトは独立を回復するが、BC525年にはアケメネス朝ペルシアに征服された。ペルシアの支配は200年続いた(27〜30王朝)。

 BC332年、マケドニアのアレクサンドロスがエジプトをペルシャの支配から解放し、アレクサンドリアを建設した。アレクサンドロスが亡くなると、その部下のプトレマイオスプトレマイオス朝を開き、エジプト人のファラオの時代は終った。

クレオパトラ
プトレマイオス朝時代に建てられたイシス神殿

 プトレマイオス朝によるギリシア人の支配は300年続き、BC51年に最後の女王クレオパトラ7世が即位した。エジプトは内紛のためすっかり衰え、ローマとの同盟関係でやっと独立を維持していた。彼女は、ポンペイウスを追ってエジプトに来たカエサルを誘惑し、愛人となった。エジプトはつかの間の安泰を得るが、カエサルは暗殺されてしまう。

 ローマでは第2回三頭政治が始まり、カエサルの部下マルクス・アントニウスが東方地域を担当した。彼はトルコ南部のタルススでクレオパトラと出会い、その美しさに心を奪われた。ローマ市民は、ローマを留守にしてクレオパトラにのめり込むアントニウスを見放した。

 アントニウスとクレオパトラ連合軍は、カエサルの後継者オクタウィアヌスアクティウムの海戦で敗れ、2人はアレクサンドリアに追い詰められて自殺した(BC30年)。

 プトレマイオス朝は滅亡し、エジプトはローマ皇帝の直轄領となった。

ヒエログリフ


アレクサンドロスのカルトゥーシュ(ルクソール神殿)

ヒエログリフ(hieroglyph)】 古代エジプトで使われた文字で、エジプトの遺跡に多く記されている。ナポレオンのエジプト遠征の時に発見されたロゼッタ・ストーンを、フランスのシャンポリオンが解読して読めるようになった。ロゼッタ・ストーンにはヒエログリフとギリシア文字、エジプトの民衆文字が刻まれていた。

カルトゥーシュ (cartouche) 】 ヒエログリフで書いたファラオの名前を楕円の枠で囲ったもの。カルトゥーシュは小銃の実包を意味するフランス語で、英語ではカートリッジ (cartridge)。楕円の形が似ているためカルトゥーシュと呼ばれるようになった。

左の図の中央にはアレクサンドロスの名前のカルトゥーシュがあり、彼がルクソールにまで遠征し、ファラオとしてエジプトに君臨していたことを示している。

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