パルティア
イラン国家

 ペルシア帝国アレクサンドロスによって滅ぼされ、彼の死後アレクサンドロス帝国は分裂しイランにはセレウコス朝が興った。セレウコス朝は、エジプトを除くペルシア帝国の領域を継承した。しかし、この広大な領域を支配し続けることはできず、BC250年頃から次第に衰えていった。

 まずアフガニスタン北部のギリシア人国家バクトリアが独立した、続いてカスピ海東南に住んでいたイラン系遊牧民がパルティア(中国名:安息 あんそく)を建国した。

 セレウコス朝は、ローマとパルティアに圧迫され最終的にはシリア周辺を支配するだけの小国に転落し、BC64年にローマのポンペイウスによって滅ぼされた。


パルティアン・ショット(Parthian Shot):
馬上から後ろ向きに矢を射る射法。英語で捨てぜりふの意味

パルティア
Parthia

 パルティアの初代王アルサケス1世(Arsaces)は、セレウコス朝をシリアへと圧迫しながら領土を広げた。5代目のミトラダテス1世(Mithradates BC171〜138)の時代にパルティアは飛躍的に発展した。東方ではバクトリアを平定してインドに入り、西方ではセレウコス朝の中心であるバビロニアにまで領土を拡大していった。首都はバグダッド南東のクテシフォン(Ctesiphon)。

 セレウコス朝シリアが滅亡するとパルティアとローマは国境を接するようになり、8次にわたる激しい戦いが繰り広げられた(パルティア戦争)。パルティアは騎兵の機動力により常にローマ軍を圧倒した。BC53年の第1次パルティア戦争では、クラッスス率いるローマ軍をカルラエの戦い(Carrhae:現トルコのハランHarran)で破った。この戦争でクラッスス親子は戦死した。

 その後、アウグストゥスやネロの時代に休戦協定が結ばれた。113年、シリアやアルメニアを巡って争いが再発し、ローマのトラヤヌス帝はパルティア領内に深く侵攻して首都クテシフォンを落とした(第5次パルティア戦争)。しかし、次のハドリアヌス帝は莫大な予算がかかるアルメニアやメソポタミアを放棄しパルティアとの和睦を進めた。

 217年にはカラカラ帝が侵攻してきたが撃退し、多額の賠償金を支払わせた。これが最後の第8次パルティア戦争である。


パルティア人の像(イラン考古学博物館)

滅亡

 ローマとの戦いで疲弊したパルティアでは、国内に反乱が多発するようになった。220年、国内の混乱に乗じて有力者のアルデシール1世が反乱を起こし、226年にパルティアを滅ぼした。

 アルダシール1世は、クテシフォンを首都としてササン朝ペルシアを建国した。


カルラエの戦いが行われたハランの荒野
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【参考資料】