イランの歴史
エラム
(Elam)

 イラン高原には石器時代から人類が住み着き、BC6000年ころには麦を中心とした農耕が始まった。BC3000年頃エラム人の国家が建設され、シュメール文明より少し遅れてイランの歴史が始まった。エラム人はエラム語を話し、原エラム文字と呼ばれる絵文字を使用した。BC2000年頃から楔形文字で記録を残すようになった。エラムの歴史で中心的役割を果たした都市はアンシャン、そしてスーサ(Susa)である。

 エラム王国は、メソポタミアのアッカド帝国ウル第3王朝と争って興亡を繰り返したが、最後はアッシリアの攻撃を受けて滅亡した。


スーサ遺跡(遠くに見えるのがフランス発掘隊が作った砦)

アーリア人
(Aryan)
 BC2000年頃、中央アジアの遊牧民であるアーリア人が南下し、イラン高原やインドに住みついた。アーリア人はイラン人とインド人に分かれていった(インド・イラン語族)。彼らは鉄器を使用し、先住民は次第にアーリア人に同化していった。

 アーリア人の中で有力だったのがメディア人とペルシア人である。メディア人は当初アッシリアに服属していたが次第に力をつけ、イラン全域を支配するメディア王国を建国した(BC750年頃)。そしてアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトと並ぶ強国となった。

 メディアに服属していたペルシア人はBC550年頃キュロス2世が反乱を起こしメディアを滅ぼした。更にリディアや新バビロニアを滅ぼしアケメネス朝が建国された。

アーリアン学説

 過去には「アーリア人はヨーロッパ、ペルシャ、インド人の共通の祖先である」というアーリアン学説があった。これは、サンスクリット語とギリシア語(ラテン語)が似ていることから提唱されたもので、アーリア人はインドからヨーロッパにまたがる広い地域を支配した優秀な民族であるという説に発展した。

 この説は、イギリスはインドの植民地支配を正当化するために利用し、ドイツはドイツ人は最も純粋にアーリア人の血を引く世界で一番優秀な民族であると国威発揚に利用した。ナチスはこの考えをもとにユダヤ人の弾圧を行った。


アーリア人が使用した土器(イラン考古学博物館)
中央の4つのマークは彼らが信じた火、水、土、風の神様を示している
アケメネス朝ペルシアセレウコス朝

 アケメネス朝はメソポタミアの次にエジプトを支配し大帝国を築き上げた。王は世界の支配者という意味の諸王の王を名乗った。更に西に支配地域を拡大しようとギリシアに侵攻したが、ペルシア戦争に敗れて西進は阻止された(BC492〜BC480年)。その後ペルシアは急速に衰退し、BC330年にアレクサンドロスによって滅ぼされた。

 ペルシアを支配したアレクサンドロスは3年後に病死し、生前に後継者を決めていなかったため将軍達による後継者争いが起こった(ディアドコイの戦い)。この結果、イランはセレウコス1世のセレウコス朝が支配することになった。

 セレウコス朝はシリアやバビロニアが政治の中心で、イラン方面には目が向けられなかった。そのため、BC250年頃にバクトリアやパルティアが相次いで独立した。パルティアはセレウコス朝を圧迫しながら西に勢力を拡大し、メソポタミアからインダス川までを支配する大国となった。BC64年、セレウコス朝がローマによって滅ぼされると、パルティアはローマと国境を接するようになり、激しい戦いが繰り広げられた。


ダレイオス1世謁見の図:イラン国立博物館
ササン朝ペルシア(Sassanid)

 パルティアの西部には多くのギリシア人の都市があり、彼らは政治や経済、文化を掌握していた。一方、イラン高原の東部にはギリシア人の影響は及ばず、遊牧民としての伝統を色濃く残していた。この西部と東部の武将たちは次第に対立するようになり、1世紀始めには内戦状態となった。ローマは親ローマ的な王を擁立しようと内紛に介入した。

 AD12年、東部のアルタバヌス2世が西部の反対勢力を鎮圧した。これ以降、ギリシア人の力は急速に衰え、ヘレニズム文化は終焉に向かった。AD220年、国内の混乱に乗じてアルデシール1世が反乱を起こしパルティアは滅びササン朝ペルシアが興った(226年)。ササンとは彼の祖父の名前といわれている。首都はクテシフォン(バグダードの南東)。ササン朝はゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。

 ササン朝は東ローマ帝国との戦いでは常に優勢だった。531年にホスロー1世が即位するとササン朝は絶頂期を迎えた。続くホスロー2世(591〜628年)の時代には東ローマが支配するシリア、エジプト、アナトリアを占領した。しかし、東ローマとの泥沼の戦いのため国力は傾き、アラビア半島から押し寄せたアラブ人達(イスラム勢力)によって滅ぼされた(651年)。


降服するウァレリアヌス帝らと騎乗のシャープール1世
ナグシェ・ロスタムの磨崖像

イスラム化

 イスラムのウマイヤ朝アッバース朝は広大な領土を支配し、支配地域のイスラムへの改宗を進めた。しかし、その支配力が弱まると地方の分権化が進んだ。イランでは9世紀頃からブハラを首都とするサーマーン朝(873〜999年)やシーラーズを首都とするブワイフ朝(932〜1062年)などの半独立政権が誕生した。

 ブワイフ朝はイラン高原からバグダードに入城し、アッバース朝カリフからアミールに任じられた(945年)。この時代はペルシア文芸復興期と呼ばれ、ペルシアの伝統やペルシア語への誇りが復活した。

 955年、サーマーン朝に仕えていたアルプテギーンがガズナ(アフガニスタンのガズニ)で独立政権を建てた(ガズナ朝)。ガズナ朝はアフガニスタンの大部分を支配し、998年に即位したマフムードはイランやインド北部にまで勢力を広げた。しかし、1030年にマフムードが亡くなると急速に衰え、セルジューク朝に滅ぼされた。

 ガズナ朝を破ったセルジューク朝は、1055年にバグダードに入城しアッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられた。セルジューク朝は東部アナトリア、シリアへと勢力を広げていった。その後セルジューク朝も権力争いがはじまり分裂し、1197年にアラル海東南に勢力を築いていたホラズム朝がイランを制圧した。

イルハン国からティムール帝国へ

 1219年、チンギス・ハン率いるモンゴル軍はホラズム朝を滅ぼした。1256年にフラグ率いるモンゴル軍がイランに入り、アラムートの暗殺教団を壊滅させた。続いてバグダードを攻略しアッバース朝を滅ぼした(1258年)。更にシリア方面に進出するが、モンケの死去により引き返し、アゼルバイジャンとの国境付近のタブリーズにイルハン朝を開いた。イルハン朝はササン朝と同じ領域を支配したが、14世紀後半には衰退した。

 混迷するイラン高原を征服したのがティムール朝である。ティムールは一気にイラン高原からシリア、アナトリアに至る大帝国を築きあげた。しかし1405年、ティムールが明への遠征途上に没すると帝国は分裂した。


イランの詩人ハーフェズ(1325〜1389年)を祀った廟
サファヴィー朝(Safavid Empire)

 ティムール朝が衰退するとサファヴィー教団が武装した信者を率いてイランを統一し、サファヴィー朝を開いた(1501年)。サファヴィー教団はカスピ海南西のアルダビールに発足した神との一体感を求める神秘主義教団(sufism)の一つである。彼らはトルコ系遊牧民クズルバシュの軍事力をバックに勢力を拡大していった。

 サファヴィー朝を開いたイスマーイール1世は、アゼルバイジャンからメソポタミアに版図を広げ、オスマン帝国と衝突した。1514年、オスマン帝国のセリム1世率いる10万のオスマン軍は、4万のサファヴィー軍をトルコ東部のチャルディラーンで迎え撃った。サファヴィー軍の騎馬隊は突進しオスマン軍を突き崩した。しかし、鉄砲と大砲を装備したオスマン軍が反撃を開始、サファヴィー軍の騎兵を狙い撃ちし形勢は逆転した。

 イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れたが、二人の妻は捕えられた。妻の一人がセリム1世の側近と婚約させられたことを知ると、イスマーイールは政治への興味をなくし、7年後に37歳の若さで死んだ。この戦いは日本の長篠の戦いと同じように、火力が騎馬軍団を圧倒した戦いだった。


チャルディラーンの戦い(イラン 四十柱宮殿の壁画)
中央がイスマーイール1世、右がセリム1世で後に火器が並んでいる)
アッバース1世(Abbas)

 1587年、アッバース1世は混乱したサファヴィー朝を建て直した。彼はオスマン朝からバグダードを奪還し、ホルムズ島からポルトガル人を追い出すなど勢力を拡大した。また、ムガル帝国や大航海時代に入ったポルトガルなどと交易し、ばく大な利益を得た。1598年にはイスファハーンに遷都し、人口40万のこの町は「世界の半分」といわれるほど繁栄した。

 1629年にアッバースが58歳で亡くなると、サファヴィー朝は徐々に衰え国は分裂状態になった。オスマン帝国にイラクを奪われ、ロシアの南下政策による侵略が始まった。18世紀に入ると衰退は決定的となり、アフガニスタンのカンダハールにホタキ朝が独立した。そして1719年にはイラン本土への進軍を開始、イスファハーンを落としサファヴィー朝は滅亡した。

 そのホタキ朝も不安定で、地方勢力のナーディル・シャーによって滅ぼされた。一時的にサファヴィー朝が復活したが、すぐにナーディルは権力を奪いアフシャール朝を開いた。ナーディルはシリアなどオスマン帝国に奪われた領土を取り返したり、ムガル帝国軍を破ってデリーを占領するなどイランの国力は増大した。


アッバース1世が作ったイマーム広場(イスファハーン)

ガージャール朝
Qajar dynasty
(1796〜 1925年)

 1796年、カスピ海沿岸で力をつけたアーカー・ムハンマド・ハーンがサファヴィー朝滅亡後のイランを統一し、ガージャール朝を興した。首都はテヘランに遷った。

 弱体化したイランにロシアが侵攻し、グルジアやアゼルバイジャン、アルメニアなど南コーカサス(Caucasus、カフカス)を奪った(1805〜13年、1827〜28年)。また、オスマン帝国とのあいだにも戦端が開かれ、イランはギリシャ独立戦争を抱えるオスマン帝国を圧倒し一時はバグダードを落とす勢いだった。この戦争はイギリスの仲介によって和睦し、両国の国境線が確定した。

 1839年と41年にはイギリスが南方から侵略し、イギリスによるイランの半植民地化が始まった(グレート・ゲーム)。1901年にイランで石油が発見されると、イラン経済はますますイギリスに従属していった。1907年にはイギリスとロシアの間で英露協商が締結され、イラン北部をロシアが、イラン南部とアフガニスタンをイギリスが支配することが決められた。

 ガージャール朝の衰退とともにテヘランでは抗議行動が始まり、やがて全国へ波及するイラン立憲革命が起こった(1906年)。しかしイギリスとロシアの介入によって革命は鎮圧された。1921年、レザー・シャーがテヘランでクーデターを起こしパフラヴィー朝が始まった。


この時代に作られたローズモスク(シラーズ)
パフラヴィー朝

 第一次世界大戦が始まるとオスマン軍がイランに侵攻し、ガージャール朝は無政府状態になった。この混乱を収束させたのが、ペルシア・コサック旅団のレザー・ハーンで、1925年にクーデターをおこしてパフラヴィー朝を興した。

 第二次世界大戦中にはソ連軍とイギリス軍がテヘランに入場した。1943年には連合国首脳がテヘラン会談を行った。

 戦後、モハンマド・レザー・パフラヴィーは父王の政策を受け継いで近代化を進めた。テヘランは首都として急成長を続けた。1971年にはペルシャ帝国建国2500年祭記念事業としてアーザーディー・タワーが建設された。


パフラヴィー王家の離宮サーダバード宮殿
イスラム共和国

 モハンマド・レザーの独裁と急進的な西欧化は市民の反発を買い、1979年にはイラン革命が起きて皇帝は失脚し、ホメイニ師による革命政権が誕生した。革命政権はパフラヴィーに基づく通りや建物の名前を改名させた。シャーがアメリカへ亡命すると両国間の緊張が高まり、1979年にはテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーの身柄引き渡しを求める人質事件が起きた。

 これによって両国の関係は決定的に悪化した。また、イラン・イラク戦争が始まり甚大な被害を出した。

イランのシーア派
十二イマーム派】 イスラム教シーア派の一派でイランの国教。イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、シーア派の中では最も信者が多い。十二イマームとは、歴史上12人のイマーム(指導者)が現れたことによる。
イマームは、初代アリーから12代目までムハンマドの子孫によって継承された。そして、874年に12代イマーム(ムハンマド・ムンタザル)は人々の前から姿を消した(隠れた)。この「隠れ:ガイバ (Ghaybah)という」の状態は現在も続いており、最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられている。

アラムート城砦
イスマーイール派】 シーア派の一派で別名7イマーム派。765年、第6代イマームであるジャアファル・サーディクの死後、イマームの継承者めぐって12イマーム派と対立し分裂した。1090年にエルブルズ山中のアラムート城砦(Alamut Castle)テヘラン北方)を奪取すると、150年間にわたってイラン高原を支配した。過激で神秘主義的な宗派で暗殺教団とも呼ばれた。この教団は暗殺者にハッシシ(大麻)を吸わせて送り込んだ。これが英語のAssassin(アサシン:暗殺者)の語源になった。暗殺教団はモンゴル軍によってに全滅させられた。

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