インドの歴史

デリー・スルタン朝

 

 

 

 

 

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奴隷王朝のアイバクが建設したクトゥブ・ミナール(デリー)

 イランのサーマン朝が衰退するとアフガニスタンにガズナ朝が独立した(955年)。首都はアフガニスタンのガズニー。ガズナ朝はマフムードの時代が最盛期で、イラン、パキスタンを征服し頻繁に北インドへ侵入した。彼の死後ガズナ朝はセルジューク朝に圧迫され衰退した。ガズナ朝の次に興ったゴール朝も北インドに侵攻を繰り返した。1206年、デリーに駐留していたゴール朝の将軍アイバクは、ゴール朝を見限ってデリーに奴隷王朝(Slave Dynasty)を建国した。

 その後インドでは300年にわたってデリーを都とするイスラム王朝が興亡を繰り広げた。この時代をデリー・スルタン朝という。この王朝には、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝の5王朝がある。トゥグルク朝の時代の1398年にはティムールにデリーを侵略されている。

 1526年、ティムールの血をひくバーブルが北インドへ侵攻し、ロディー朝を倒してムガル帝国を建国した。ムガルとは、モンゴルのことである。

ムガル帝国
Mughul

 

 

 

 

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タージ・マハル(アグラ)

 ムガル帝国は3代皇帝アクバルの時代に、アフガニスタンから北インドにかけての広大な地域を支配した。彼はヒンドゥー教徒の娘と結婚し、イスラムとヒンドゥーの融和を図った。この結果、社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発に行われた。インドに統一王朝が誕生したのはマウリヤ朝(アショーカ王)以来で、ムガル帝国は300年にわたってインドを支配した。

 5代目のシャー・ジャハーン(Shah Jahan)の時代に帝国は最盛期を迎え、支配領域はデカン高原方面におよんだ。首都のアグラには亡き妻ムムターズ・マハル(Mumtaz Mahal)の霊廟タージ・マハル(Taj Mahal)を22年かけて建設した。

 6代目のアウラングゼーブは、さらに領土を拡大したが、厳格なイスラム教に基づく統治を行ったため各地で反乱が勃発した。デカン高原ではヒンドゥー教徒のマラータ族がチャトラパティ・シヴァージー(Chhatrapati Shivaji)に率いられてマラータ王国を建国、パンジャブ地方ではシク教徒が反乱をおこした。チャトラパティ・シヴァージーの名はムンバイの鉄道駅や空港に付けられている。

 18世紀に入ると各地の諸侯が独立し、帝国はデリー周辺に領土を持つだけの地方政権に落ちぶれてしまった。

英蘭のインド進出

 

 

 

 

 

 

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ムガル帝国の最大版図

 イギリスとオランダは東インド会社を設立して香辛料を中心とするアジア貿易に参入し、スペインポルトガルを追い出した。東インド会社は貿易と植民地経営を任された特権会社だった。コロンブスが発見した場所が西インドで、現在のインドから東の方面が東インドと呼ばれた。1623年、オランダはモルッカ諸島のアンボン島のイギリス勢力を駆逐し、東南アジアからイギリスを締め出した(アンボイナ事件)。

 イギリスはインドの経営に専念し、1639年にマドラス(現チェンナイ)に進出、カルカッタ、ボンベイなど次々と拠点を作った。一方のオランダはポルトガル領スリランカを奪取し、インド南部のコーチンに進出した。その後オランダはイギリスとの競争に敗れインドから撤退した。

 フランスはポンディシェリに拠点を築いて勢力を伸ばすが、1757年のプラッシーの戦い(plassey)でイギリスに敗れインドから撤退した(パリ条約)。イギリスはベンガルの徴税権をムガル皇帝から与えられ、本格的に植民地支配に乗り出した。

英領インド帝国
チェンナイにあるサントメ教会

 イギリスは各地の政権を次々と征服し、イギリスに服従する藩王国を作っていった。その数は550以上にのぼった。藩王国の国王がマハラジャである。イギリスはヒンドゥ教とイスラム教の国を分離して統治したため、両者の溝は徐々に深くなり、インドとパキスタンが分離独立する遠因となった。

 イギリスは南インドのマイソール王国や、中部インドのマラータ同盟、西北インドのシク教国を破り、インド全土を征服した。19世紀に入ると、ネパールやスリランカも支配下におさめた。ムガル帝国の権威は失墜し、東インド会社の庇護のもと、かろうじてデリーのみを支配していた。

 インドの代表的な産物は、香料(こしょう、カレー)、染料(インディゴ)、綿製品(唐桟)だった。青藍の染料はインドが原産地であることからインディゴ(Indigo)と呼ばれた。また、唐桟は江戸時代にヨーロッパ船が運んできた綿織物のことで、インドの桟留(サントメ)が最も有名だった。サントメとはインドまで布教したといわれる聖トマスのことである。インドの産業はイギリス製品の大量流入により崩壊した。

 東インド会社は100年にわたってインド人傭兵(シパーヒーまたはセポイ)を雇い軍事力を強化してきた。その軍隊はベンガル軍、ボンベイ軍、マドラス軍から構成され、全軍で約24万、その内シパーヒーは20万を数えた。指揮官は全てヨーロッパ人だった。シパーヒーはインドの若者の憧れの職業で、裕福な上流階級の子弟が雇われた。

インド大反乱(セポイの反乱またはシパーヒーの反乱)

 

 

 

 

 

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反乱軍の拠点となったレッド・フォート(デリー)

 イギリスは新式のエンフィールド銃(ライフル銃)を部隊に配備した。しかし、この銃の薬包に牛の脂と豚の脂が使われているとの噂が流れた。牛はヒンドゥー教徒が神聖視し、豚はイスラム教徒が不浄とする動物だった。シパーヒー達は薬包の受け取りを拒否した。彼らは命令違反として厳しく処罰され、各地の部隊に不穏な空気が流れ始めた。

 1857年5月、デリー近郊のメーラトに駐留していたシパーヒー2000人が蜂起した。多くのイギリス人兵士が殺され、イギリス人居住区も襲われた。反乱軍はデリーに侵攻しデリー駐留のシパーヒーと合流した。そして、反乱政府を樹立し、地方のシパーヒーや旧王侯、農民に蜂起を呼びかけた。反乱政府の頂点には82歳のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世が擁立された。

 反乱政府の呼びかけに蜂起したシパーヒー部隊は、各地に孤立したイギリス人を殺害し続々とデリーに集結してきた。反乱軍の兵力は増強されたが、将校経験がないシパーヒーには軍を統率する能力がなかった。やがてヒンドゥーとムスリムの兵士間の対立も始った。

デリー陥落
階段が死体の山で埋まったジャマーマスジット

 6月になるとイギリス軍は体制を立て直しデリーに兵を進めた。反乱軍も必死で迎え撃った。統制のとれたイギリス軍は強く、指揮官不在の反乱軍は次第に追い詰められた。9月14日にはデリーへの総攻撃が始まった。

 反乱軍は頑強に抵抗し、5日経ってもデリーは落ちなかった。しかし、皇帝がレッド・フォートを脱出すると、主力部隊も撤退しイギリス軍がデリーに突入した。最大のモスクであるジャマーマスジット(Jama Masjid)には、多くのムスリム兵が集結していた。彼らは白装束姿でイギリス軍に突っ込んでいった。モスクの階段はムスリム兵の死体で埋まったという。

 こうして組織的な抵抗が終わり、デリーが陥落した。反乱から4ヵ月後のことであった。

ラクシュミー・バーイー


イギリス軍と戦うラクシュミー・バーイー

【19世紀におけるアジアの大反乱】1.太平天国の乱(中国), 2.明治維新(日本), 3.インド大反乱(インド)

 デリーが陥落してもインド各地で反乱が続いた。その中で有名なのが、アグラ南方にあるジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミー・バーイー(Lakshmibai)の反乱である。

 インド大反乱の3年前、国王が病死するとジャーンシーは東インド会社に併合された。世継ぎがいないという理由だったが、実際は王の死の直前に養子を迎えていた。王妃は王国を復活すべく奔走するが、イギリスは全く相手にしなかった。

 インド大反乱が起こるとジャーンシー駐在のシパーヒーも蜂起し、イギリス兵を殺害してデリーに進軍していった。王妃はジャーンシー城を奪還し、私財を投じて兵を募り反英闘争を始めた。

 王妃は白馬にまたがって戦った。反乱軍は勢いづき近代装備のイギリス軍を圧倒した。しかし、多勢に無勢、1858年4月にジャーンシー城は陥落した。王妃は城を脱出し2ヶ月間各地で奮戦したが、ついにイギリス軍の銃弾に倒れた。23歳の若さだった。今でも彼女は「インドのジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。

 1858年、インド大反乱は鎮圧された。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世はミャンマー(ビルマ)に追放され、350年続いたムガル帝国は完全に消滅した。イギリスは東インド会社を解散し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国として直接統治を始めた(1877年)。

国民会議派
英国王ジョージ5世訪問記念に造られたインド門(ムンバイ)

 インド帝国は、イギリスの直轄領と550以上の藩王国から構成された。藩王国は自治を認められたが、団結して抵抗できないように分割統治された。また、インドの知識人から成るインド国民会議を設置し、インド人の地位向上や古い因習を廃止する活動を行わせた。

 20世紀に入ると、日露戦争での日本の勝利に刺激されて民族の自覚が芽生え、反英機運が高まっていった。1905年、イギリスがイスラム/ヒンドゥ両教徒の分離をはかるベンガル分割令を公布すると、 国民会議派はこれに強く反発した。

 1906年、カルカッタ(コルカタ)の国民会議は、英貨排斥、スワラージ(自治獲得)、スワデーシ(国産品愛用)、民族教育の4綱領を決議した。イギリスは親英的な全インド・ムスリム連盟を発足させて国民会議派と対抗させた。1911年には分割令を撤回するが効果はなく民族運動は年々強まっていった。

マハトマ・ガンディー
Mohandas Karamchand Gandhi

インド独立の父 マハトマ・ガンディー

 第一次世界大戦が起こると、イギリスは戦後の自治を約束してインドから兵員と物資を提供させた。しかし、戦後イギリスはこの公約を守らず、1919年に令状なしに逮捕、投獄を認めるローラット法を施行して民族運動を弾圧した。

 インド国民は態度を硬化させ、国民会議派のガンディーの指導のもとに非暴力・不服従の運動を始めた。ガンディーの登場は、知識人主導だった民族運動を、大衆運動に発展させた。また、インド・ムスリム連盟もこれに協力し、運動は全インドに広がっていった。

 1929年、国民会議派の大会で、ガンディーやネルーの指導のもと、プールナ・スワラージ(完全独立)が宣言された。翌1930年には、イギリスによる塩の専売に対抗するため、自分の手で塩を作る運動(塩の行進)を開始した。

 これに対してイギリスは、民族運動の指導者を英印円卓会議に招いて懐柔をはかったが失敗した。1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めた。しかし、独立にはほど遠かった。

独立

 

 

 

 

 

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ボースが眠る杉並区蓮光寺

 第二次世界大戦では国民会議派の急進派だったチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)が日本の援助によってインド国民軍を結成した。インド国民軍は、マレーシアやシンガポールで捕虜となった英印軍将兵から志願者を募って創設された。総兵力は約45,000人に達し日本軍とともにインパール作戦にも参加した。日本の降伏後、ボースはソ連に向かって台湾から飛び立ったが、墜落事故により死去した。ボースの遺骨は杉並区の蓮光寺で眠っている。

 戦後、インド国民軍将兵の裁判が行われたが、インド国民は激しく反対した。イギリスはインドの放棄を決断し、総選挙が行われた。その後、国民会議とムスリム連盟の対立は深まり、1947年8月15日インドは独立、同日にパキスタンも分離独立した。翌1948年にはセイロン(スリランカ)が独立し、イギリスの植民地支配は終わった。

 ヒンドゥーとイスラムの融和を説き、分離独立に反対したガンディーは1948年、狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺された。初代首相にはネルーが就任した。

カシミール問題

 インドとパキスタンが分離独立したことで、藩王国はどちらに帰属するかを迫られた。カシミール藩王は自分はヒンドゥー教徒、住民の80%はムスリムという微妙な立場にあった。そこにパキスタンが武力介入したため、藩王はインドへの帰属を表明し、インドに派兵を求めた。これが第一次印パ戦争である。

 その後、1965年に第二次印パ戦争が起こり、バングラデシュの独立をインドが支持したため第三次印パ戦争(1971年)が起こった。現在は、カシミールの中間付近に停戦ラインが引かれて小康状態を保っている。

【カシミール地方】赤枠内が旧カシミール藩王国。緑がパキスタン占領地、橙はインド占領地、斜線部は中国占領地、茶は1963年にパキスタンが中国へ割譲した地域。高級織物のカシミアはこの地域原産のカシミアヤギの毛から作られる。

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【参考資料】
インド大反乱一八五七年 長崎暢子 中公新書