アメリカの歴史 その2
領土の拡大
拡大するアメリカ

 ラテンアメリカの独立運動が盛んになった1823年、第5代大統領モンローはヨーロッパとアメリカの相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表した。これはモンロー主義と呼ばれ、その後100年近くアメリカ外交の基本方針となった。1829年、第7代大統領ジャクソンは、インディアン移住法によってチェロキー族、クリーク族などの部族を強制的にオクラホマに移住させた。彼らは涙の道(Trail of Tears)を徒歩で移住させられ、死者は数千とも数万とも伝えられている。人々は「アメイジング・グレイス」を歌って士気を高め、この歌はチェロキー族の国歌になった。

 この頃、アメリカは産業革命を迎え、鉄道や航路が整備された。そして、親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党(後の共和党)を結成し、現在の二大政党の形が作られた。

 米英戦争後の1818年、カナダの一部を手に入れ、1819年にはスペインからフロリダを500万ドルで購入した。1845年には、メキシコから独立したテキサスを併合、翌年にはオレゴンを併合して領土は太平洋に達した。1846年に始まったメキシコ戦争(Mexican War) ではアメリカが圧勝、ニューメキシコとカリフォルニアがアメリカの領土となった。カリフォルニアでは金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが起こり、幌馬車隊(コンボイ)による西部開拓時代が始まった。

 外政では、西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して強圧外交を行った。1800年代に清や朝鮮に接近、1853年には日本に来航し開国を迫った。南北戦争後の米西戦争でスペインを破り、フィリピン、グアム、プエルトリコを手に入れた。

【フロンティア‐スピリット(frontier spirit)】 開拓者精神。剛健・忍耐・創意、闘争性・利己性などが特徴。インディアンと戦いながら西に向かい、生活用品は森から自分で作り出す開拓者の精神。これがアメリカン・ドリームとなって受け継がれている。

南北戦争(The Civil War:1861年〜1865年)

 

 

 

 

 

 

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リンカーン記念堂(Abraham Lincoln ワシントンD.C.)

 アメリカ北部では米英戦争後工業化が進み、労働力不足を黒人奴隷の解放で補っていた。一方、南部では綿花を中心とする広大なプランテーションを経営し、その労働力は黒人奴隷に支えられていた。

 1860年、奴隷解放を目指すエイブラハム・リンカーンが16代大統領に就任した。これに南部11州は反発し、アメリカ連合国(南部連合)を結成して合衆国から離反、合衆国にとどまった北部23州との間で南北戦争が始まった。戦いは南軍有利で進んだが、1862年に奴隷解放宣言が行われると、南部の奴隷の反乱や逃亡が起こり、戦局は北軍に傾いた。そしてゲディスバーグの戦いで北軍が勝利し、1865年4月には南部連合の首都リッチモンド (バージニア州)が陥落、南軍は降伏した。

 戦後、奴隷制は廃止され、黒人に市民権が与えられた。解放された奴隷の一部はアフリカへの帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが作られた。首都はモンロビア(モンロー大統領にちなんだ名前)。奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは没落した。

【ゲティスバーグ演説】 1863年11月19日、ペンシルベニア州ゲティスバーグの国立戦没者墓地でリンカーンが行った演説。「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)」。この言葉はウィクリフが聖書について語った言葉を引用している。戦争終結後、リンカーンはワシントンのフォード劇場で喜劇を観劇中に、南部の過激派ジョン・ウィルクス・ブースに暗殺された(1865年4月14日)。

大陸横断鉄道

 

 

 

 

 

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南軍の英雄達のレリーフ(アトランタ StoneMountain)
左からデイヴィス大統領、リー将軍、ジャクソン将軍

 南北戦争中の1862年、リンカーンは大陸横断鉄道の建設を開始した。建設はネブラスカ州オマハから西へ進むルートと、カリフォルニア州サクラメントから東へ向うルートが同時に着工された。

 鉄道建設は苦難の連続であった。西からの作業は中国人移民が多く使われ、発明されたばかりで安全性の低かったニトログリセリンによって多くの死者が出た。東からはアイルランド人移民が多く駆り出された。「線路は続くよ どこまでも・・・」の歌はアイルランド人労働者によって作られたものである。

 リンカーンの死から4年後の1869年、ついに最初の大陸横断鉄道が完成した。1872年には日本の岩倉使節団も乗客となっている。そして、20世紀始めまでに8ルートの大陸横断鉄道が作られた。大陸横断鉄道は駅馬車の時代を終わらせ、西部は飛躍的に発展していった。

 その反面、鉄道建設はインディアンの生活を破壊し、運行の邪魔になる野生動物バッファローを虐殺した。19世紀初頭に4000万頭を数えたバッファローは、1890年ころには1000頭未満となってしまった。

フロンティアの消滅


自由の女神(Statue of Liberty ニューヨーク)

 1868年には北部アラスカをロシアから安値で購入した。西部の人口増加は続き、インディアンの生活圏は急速に奪われていった。これに対してスー族やアパッチ族、シャイアン族などが蜂起したが次々と鎮圧された。

 インディアンが住む土地は保留地としてアメリカ政府から認められていたが、入植者の急激な増大に伴い、その土地は略奪されていった。そして、各部族と結ばれた条約は合衆国によって次々に破棄され、保留地は縮小していった。1871年、議会は「合衆国はインディアン部族を独立国家と認めない、今後は条約は結ばない」と決議した。そして1887年にドーズ法が制定され、インディアン部族の保留地(Reservation)は、インディアン個人に分割されてしまった。

 1886年、アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、フランスから自由の女神が贈られた。

 1890年、開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了したとして、フロンティアの消滅を宣言し、アメリカの全ての土地に入植者が入ったことを認めた。これは、もはや開拓すべき土地がなくなってしまったということで、多くの白人は失望した。そして、新たなフロンティアを見つけるため、太平洋の島々に進出していった。

ハワイ
リンカーン記念堂から見たワシントン記念塔

 ハワイは、1778年にイギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が発見した。その頃のハワイは、それぞれの島が独立していた。中でもハワイ島のカメハメハ(Kamehameha)が最も強力で、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服していった。1790年、全島が統一されハワイ王国が誕生した。

 ハワイ王国は独立を保っていたが、1820年にアメリカの宣教師が渡ってくると急速にキリスト教化され、教育や政治、経済にアメリカの影響が強まっていった。1875年、ハワイとアメリカは互恵条約を締結し、1898年にアメリカ合衆国に併合された。

【ジェームズ・クック(James Cook)】 通称キャプテン・クック。イギリスの海軍士官で、3回にわたって太平洋の探検を行った。1回目はエンデバー号でニュージーランドやオーストラリアを探検し、オーストラリアの領有を宣言した。エンデバー号の名前はスペースシャトルにも命名されている。2回目はヨーロッパ人として初めて南極圏を航海した。そして、3回目の航海でハワイ諸島を発見したが、先住民との紛争で殺された。その航海で航海長だったウィリアム・ブライは、その後バウンティ号の艦長になった。バウンティ号は1789年に乗組員が反乱を起こした。

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