朝鮮の歴史

衛氏朝鮮
(えいしちょうせん)


広開土王の領土拡張(ソウル 戦争博物館)

  史記によれば、朝鮮は戦国の7雄の一つの支配下に入っていた。燕が秦に滅ぼされ、漢が中国を統一すると漢が朝鮮を支配した。漢の高祖(劉邦)は仲のよかった盧綰(ろわん)を燕王に封じるが、その後対立して盧綰は匈奴に亡命する。そして、その家臣衛満は千人余りを従えて朝鮮に入り、王険城(平壌)を首都として衛氏朝鮮を建国した。 BC195年頃のことである。

 衛氏朝鮮は独立国家として振舞うが、BC108年に漢の武帝に滅ぼされ、漢の直轄地となった。そこには楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が設置された。その後、真番・臨屯が楽浪郡に併合され、玄菟郡も遼東半島に移転した。

 後漢末期になると、遼東半島で台頭した公孫氏が楽浪郡を支配し、その南に帯方郡を設置した。

三国時代

 BC1世紀中頃には漢の支配が弱まり、BC37年に中国の遼寧省付近に伝説の人物朱蒙(しゅもう)が高句麗(こうくり、こま)を建国した。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、楽浪郡や帯方郡を滅ぼした。391年に即位した広開土王好太王)は遼東に勢力を伸ばし、満州南部から朝鮮半島の大半を領土とした。

 半島南部では、3世紀頃に三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国が分立し、楽浪郡の支配を受けていた。4世紀中には馬韓を百済(くだら)が、辰韓を新羅(しらぎ)が統一して、朝鮮半島の三国時代が始まった。三国は激しく争い、新羅は他の二国に圧迫されていた。

 4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:伽耶(かや)とも言う)を支配した。中国を統一したは、4度の高句麗遠征に失敗して滅び、次の唐も高句麗遠征に失敗した。

 新羅は唐との関係を強化し、唐・新羅連合軍は660年に百済を滅し、663年には百済の遺臣とそれを支援する倭国軍(指導者は後の天智天皇の中大兄皇子)を白村江(はくすきのえ)で破った。そして668年には、残った高句麗を滅し、新羅が朝鮮半島を統一した。

 倭国は朝鮮半島の領地や権益を失い、国防体制などを根本的に変革する必要に迫られた。そして、律令国家の建設を急ぎ、倭国は日本と国号を変えた。702年には遣唐使も再開され唐との国交を回復した。

高麗


元寇(ソウル 戦争博物館)

 9世紀になると新羅は内紛のため分裂状態となり、918年に後高句麗の将軍王建高麗をたて、朝鮮半島を統一した。高麗は仏教を保護し、唐と宋の制度を取り入れて栄えた。

 993年からは契丹が何度も侵入し、高麗と激しい戦闘を繰り返した。契丹が西に去ると今度は女真が台頭しを建国した。高麗は、金に朝貢して国内を安定させた。

 1231年からはモンゴルの侵入が始まった。高麗は都を江華島に移して抗戦したが、国土はモンゴル軍に蹂躙された。1259年、高麗はモンゴル帝国に服属し、30年に及ぶ抵抗は終わった。

 の属国となった高麗は、二度の日本侵攻(元寇)の前線基地となり、多大な負担を強いられた。1350年頃からは倭寇の動きが活発化し、また紅巾賊に都を占拠される事件も発生した。

李氏朝鮮

 

 

 

 

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李成桂が建てた王宮(景福宮 ソウル)

 元が滅んで明の時代になると、倭寇や元との戦いで功績をあげた李成桂が立ち上がり、1392年に李氏朝鮮を興した。

 李成桂はから権知朝鮮国事(朝鮮王)に封ぜられ、国号を朝鮮とした。都は漢陽(ソウル)である。朝鮮は約500年続き、明の朝貢国の時代(1393〜1637年)、の朝貢国の時代(1637〜1894年)、欧米や日本が干渉した時代(19世紀後半〜 1910年)に分けられる。

 李成桂は儒教を崇拝し、仏教を排斥する政策をとった。しかし、彼は晩年に仏門に帰依するなど儒教も仏教も保護された。明の朝貢国の時代には、文禄・慶長の役と清の侵攻の大きな戦争が発生し国土は焦土と化した。

文禄・慶長の役
(倭乱)

朝鮮水軍を率いて活躍した李舜臣(ソウル)

 1589年、中国征服を狙う豊臣秀吉は、朝鮮に明征討の先鋒になるよう要求した。日朝間の交渉は3年にわたって行われたが、誤解や虚偽の報告などもあって交渉は決裂した。

 1592年、日本軍が釜山に上陸した(文禄の役)。朝鮮軍は歴戦の日本軍に各地で敗れ、数ヶ月で朝鮮全土が制圧された。朝鮮は宗主国の明に支援を要請、明軍が参戦すると日本軍は漢城(ソウル)まで押し戻された。戦線が膠着すると休戦のための和平交渉が始まった

 日明の交渉担当者はそれぞれの王に偽りの報告をした。秀吉には「明が降伏した」、明朝廷には「日本が降伏した」と報告した。明は日本の降伏を受け入れ、秀吉を日本国王と認める使節を派遣した。1596年、秀吉は明の使節と会い、そのでたらめな内容に激怒した。翌年、日本軍は再び侵攻してきた(慶長の役)。北上する日本軍を漢城付近で明軍が迎え撃ち、泥沼の戦いが続いた。1599年に秀吉が死去すると、日本軍は撤退した。

 この戦乱で朝鮮は崩壊寸前まで追いやられ、明も国力をすり減らし滅亡の遠因になった。1609年、朝鮮は日本と和約し外交関係の修復にも力を入れた(朝鮮通信使)。

の侵攻
(胡乱)

清との講和時に建てられた三田渡碑(大清皇帝功徳碑)

 中国では明が衰え、満州に後金が独立した。1627年、後金は明と同盟関係にある朝鮮に侵攻してきた。朝鮮軍は敗北を重ね、皇帝は江華島へ避難した。その後、後金に服従することで講和が成立、後金軍は撤退した。

 1636年、後金は国号をとし、清に服従することと明討伐の派遣軍3万の提供を要求してきた。朝鮮はこれを拒否、清は12万の大軍で侵攻してきた。朝鮮軍はなすすべもなく40日あまりで降伏した。朝鮮は明と断交すること、王子を人質に差し出すこと、莫大な賠償金を支払うなどの屈辱的な講和条約を結ばされた。また、朝鮮王の仁祖は、清の皇帝の前で三跪九叩頭の礼を行い、服従する誓いをさせられた。

【三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)】 中国皇帝に臣下の礼をとるため、三度ひざまずき、九度頭を地にこすりつける儀式。

大韓帝国    日清戦争後の下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(通称・韓国)として独立した。これ以後日本の強い影響下に置かれた。そして、1910年、日韓併合条約によって日本に併合された。
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【参考資料】