満州帝国

満州帝国


満州国国務院(長春):現在は医科大学
日本の国会議事堂に似せて作られた

 満州国は王道楽土五族協和をスローガンにしたが、実体は日本の傀儡国家で、わずか13年半で消滅した。

日本は、日露戦争の勝利によって長春と旅順を結ぶ鉄道と撫順などの炭鉱経営の利権を獲得した。これらの事業を行うため、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された(1906年)。

 1931年、石原莞爾を中心とした関東軍は、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で鉄道を爆破、これを中国側の仕業として中国東北部に侵攻した。戦線は奉天など満鉄沿線の都市から満州全域に拡大し、関東軍は錦州、チチハル、ハルピンを相次いで占領した。翌1932年に満州国を建国、清の最後の皇帝溥儀が満州国皇帝に就いた。首都は新京、現在の長春である。

 アメリカは満州国を承認せず、国際連盟も日本の正当性を否認し、列強による共同管理を提案したリットン報告書が圧倒的多数で可決された。日本は国際連盟を脱退した。

 多くの国が満州国を承認しなかったが、エルサルバドル、ヴァチカン、イタリア、スペイン(フランコ政権)、ドイツ、ポーランド、ハンガリーなど23ヶ国が承認した。

溥儀
(あいしんかくら・ふぎ)


溥儀と婉容

 愛新覚羅溥儀は,、清朝第9代光緒帝の弟の長男として生まれ、3歳で第10代宣統帝となった。溥儀を皇帝にしたのは西太后。彼女は紫禁城の女官だったが、第8代同治帝を産んでから強大な権力を握るようになった。

 1911年、孫文による辛亥革命が起こり、中華民国臨時政府が樹立された。清朝は袁世凱に陸海軍の指揮権を与えて革命政府を鎮圧するよう指示した。しかし、袁世凱は革命政府と裏取引し、清朝を裏切った。日本、イギリス、アメリカも清朝に見切りをつけて袁世凱を支持した。孫文は、皇帝溥儀の退位を条件に袁世凱が臨時大総統に就くことに同意、溥儀は6歳で皇帝を追われ清朝は滅亡した。

 溥儀は皇帝の座を失っても、今まで通り紫禁城で生活することを許された。新生中華民国の力は名目だけで、全国には軍閥が割拠した。東北地方を支配していたのが張作霖である。北京は軍閥に占拠され、溥儀は紫禁城を脱出し、日本の手引きで天津へ亡命した。

満州国皇帝

 

 

 

 

 

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旧満州国国務院(現吉林大学)の向かいにある文化広場

  1928年、清朝の乾隆帝と西太后が埋葬されている東陵が、蒋介石軍に盗掘される東陵事件が発生、溥儀は蒋介石を憎んだ。その後、満州事変が起こり、皇帝になることを夢みていた溥儀は、満州国皇帝に即位した。

 第2次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し、一気に満州国へ侵攻してきた。溥儀は列車で新京を脱出し日本に亡命しようとするが、朝鮮国境でソ連軍に捕らえられた。その後、中国で人格改造を受け、1959年の中華人民共和国建国10周年の特赦で釈放された。裏切り者という汚名を着せられ、一市民となった溥儀は、1962年に李淑賢と結婚する。その5年後、妻に見守られながら波乱の一生を終えた。

婉容
(えんよう)


婉容

 溥儀の夫人婉容は、満州の上流貴族の娘に生まれ、西洋式の英才教育を受けて育った。才色兼備の誉れが高く、17歳のとき溥儀と結婚、皇后となった。性格も人当たりも良く、誰からも愛される女性だった。

 しかし、溥儀との結婚生活は幸せなものではなかった。溥儀には男色癖があり彼女に見向きもしなかった。夜をともにすることもなく、同じテーブルで食事をすることもなかった。彼女の心はすさんでいき、アヘンを吸い始めるようになった。溥儀はそんな彼女をますます疎んじた。

 満たされない日々を過ごしていた婉容は、やがて親切な部下に心をひかれていった。そして身ごもり女の子を出産した。生まれたばかりのその子は、母親に抱かれることもなく殺された。

 日本の敗戦、満州国の消滅、溥儀に見捨てられた彼女は、コンクリートで囲われた真っ暗な官房にいた。重度のアヘン中毒、精神病におかされた彼女はボロボロだった。すでに狂っていた。コンクリートの床に転げ落ちたまま、ベッドに戻ることも動くこともできなくなっていた。1946年、忘れ去られた彼女は誰に見取られることもなく静かに息を引き取った。39歳の若さだった。

李香蘭
(りこうらん)

 満州国に満州映画協会(満映)という国策会社があった。「日満親善」、「五族協和」など満州国の理想を中国人に教育することが目的だった。満映から出た女優が李香蘭、本名は山口淑子。日本人だったが、流暢な日本語を話せる中国人として売り出された。


長谷川一夫と共演した支那の夜(東宝映画)

 彼女は1920年満州の奉天(瀋陽)で生まれた。満鉄で中国語を教えていた父の影響できれいな中国語を話せた。また、ロシアのオペラ座で活躍していたオペラ歌手に声楽を習い、歌の上手な美しい娘に育った。1937年に満州国と満鉄が出資した満映が設立されると、彼女は看板スターとして迎えられた。

 満映は日本人が中国を守っているという映画を作る必要があった。彼女は強い日本の男に惚れる従順な中国人女性を演じた。彼女の映画は満州や日本では大ヒットしたが、中国人には屈辱的な内容だったため中国では嫌われていた。1943年、彼女の最後の作品「萬世流芳」が上映された。アヘン戦争で活躍した林則徐を描いた時代劇で、横暴なイギリス人と戦う姿が抗日と重なって空前のヒット作となった。

 中国でも爆発的な人気を得た李香蘭は、北京で記者会見を開いた。会見終了間際に若い記者が叫んだ。「あなたは中国人でしょう。それなのに、白蘭の歌や支那の夜など中国を侮辱している日本映画になぜ出演したのですか?」彼女は「私は実は日本人です」と喉まで出かかったが、「分別のない自分の過ちでした。今は後悔しています。あの映画に出たことをお詫びします」と答えた。混乱した彼女の言葉に湧き上がるような拍手がおこった。


溥儀と婉容が暮らした皇宮(長春の偽満皇宮博物館)

 彼女は、「李香蘭を捨てよう」と決意、辞意を伝えた。「私はこれ以上中国人になりすますことはできません。日本と中国との板ばさみで、ずいぶん苦しみました」理事長の甘粕は「よくわかりました。長い間ご苦労さまでした」とあっさり承諾。それから一年もたたないうちに日本は敗れ、甘粕は服毒自殺、満映も消滅した。

 山口淑子に戻った彼女は、裏切者として漢奸裁判を受けることになった。しかし、家族が所持していた戸籍謄本で日本人であると証明され、無罪・国外退去になった。日本に帰国した彼女は、1948年に映画界に復帰し、1958年の「東京の休日」を最後に映画界から引退した。

 1974年には、自由民主党から参議院全国区に立候補して当選し、18年間参議院議員を務めた。2014年、彼女は94歳の波乱の生涯を閉じた。

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【参考資料】
「李香蘭」を生きて 山口淑子 日本経済新聞社