スペインの歴史 その3
ナポレオンの支配


ナポレオン軍に破壊されたサラゴサのカルメン門

 1714年、スペイン継承戦争が終わると、スペインブルボン家のフェリペ5世による統治が始まった。彼は戦争で失ったナポリ、シチリア、サルデーニャを取り返し、国力の回復に力を注いだ。しかし、孫カルロス4世は政治に無関心で、王妃とその愛人のゴドイ(Godoy)が政治を取り仕切った。

 やがてフランス革命が始まり、カルロスの従兄弟のルイ16世が処刑された。王権を維持しようとするオーストリアやスペインは第一次対仏大同盟でフランスに対抗したが、フランス革命軍に敗れスペイン領内に侵攻された。また、カリブ海のスペイン領イスパニョーラ島でもフランスとの戦いが起こり、島の西側半分を失った。ここはフランス領となり、その後ハイチとして独立する。

 ナポレオンがフランス皇帝になるとスペインは完全にその傀儡となった。スペイン艦隊はトラファルガー海戦で全滅し、海上の覇権は完全にイギリスのものとなった。カルロス4世とゴドイは失脚し、カルロスの息子フェルナンド7世が即位した。しかし、ナポレオンはこれを認めず、自分の兄ジョセフ・ボナパルトをスペイン王に任命した(1808年、スペイン名:ホセ1世)。

スペイン独立戦争
フランス軍による市民の虐殺(ゴヤ プラド美術館)

 ジョゼフは、異端審問を廃止するなど多くの改革を行ったが、フランス人の支配に国民は反発し、内戦が始まった。これをイギリスやポルトガルが支援し、各国を巻き込んだスペイン独立戦争(半島戦争)へとエスカレートしていった。ナポレオンは大軍を投入するが鎮圧できず、フェルナンド7世にスペイン王位を返還した(1813年)。

 この戦争はナポレオン失脚の遠因となった。戦場となったスペインは荒廃し、略奪によって多くの美術品が散逸した。また、中南米の植民地でも反政府運動が起こり、これらの国々は次々と独立していった。

 フランス軍が撤退するとフェルナンド7世は国民の歓呼に迎えられた。しかし、その期待は裏切られ、反動政治が始まった。自由主義者達は反発し、リエゴ将軍を中心にスペイン立憲革命を起こして自由主義政府を樹立した。しかし、3年後にはルイ18世による王政が復活したフランスが介入し、革命政府は鎮圧されリエゴは処刑された。

【リエゴ賛歌】 リエゴを称えたリエゴ賛歌はスペイン第二共和政(1931〜1939年)の国歌として親しまれた。

カルリスタ戦争
スペイン北部バスク地方の中心都市ビルバオ

 1833年、フェルナンド7世が死去すると、彼の娘イサベルが3歳で即位した。これに反対したのがフェルナンドの弟カルロスである。彼は、ブルボン家では女性が王位を継承することができないことを口実に反旗を翻した。カルロスはナバラやバスクなどスペイン北部の人々に支持された。彼らはカルリスタと呼ばれた。

 カルリスタ戦争は王位継承をめぐる戦争だったが、絶対君主制を求める復古主義(カルロス)か自由主義(イサベル女王)かを問う戦いでもあった。1833年に始まり、一時はカルリスタがマドリッドに迫る勢いだったが、1876年には鎮圧された。スペインは、自由主義国家として歩み始めた。

 1875年、イサベルの息子がアルフォンソ12世として即位した。久しぶりにスペインは安定した平和な時代を迎えるが、わずか10年で病没した。続いて乳児のアルフォンソ13世が王位に就き、母親のマリア・クリスティーナが摂政を務めた。

米西戦争
爆破されたメイン号

 かって世界に君臨した日の沈まないスペイン帝国は、ここ数世紀の間にほとんどの植民地を失った。わずかに残っていたキューバやフィリピンでは激しい独立運動が起こった。アメリカは独立運動を支援し、ひそかにこれらの植民地を狙っていた。経済はすでにアメリカが支配しており、インディアンとの戦いを終えたアメリカ陸軍は新しい任務を探していた。

 1898年、アメリカの戦艦メイン号がキューバのアメリカ人保護を目的にハバナに入港した。その3週間後、メイン号は謎の爆発によって沈没し、260名の命が失われた。アメリカはこの爆発はスペインの仕業と決めつけ、米西戦争が始まった。

 戦闘は、キューバ、フィリピン、グァムで行われ、近代装備のアメリカ軍はスペイン軍を圧倒した。パリで行われた和平交渉において、キューバの独立が認められ、アメリカはフィリピン、グアム、プエルトリコと、2000万ドルの賠償金を手に入れた。

 スペインはアメリカ大陸と太平洋から完全に締め出され、代わりにアメリカが覇権を握った。翌年にはカロリン諸島をドイツに売却し、スペインの植民地はモロッコのみとなった。

第二共和政
プリモ・デ・リベラ将軍

 1914年、第一次世界大戦が始まった。スペインは中立を宣言し、戦争特需による好景気に沸いた。しかし、戦争が終わると経済は急速に冷え込み、また、ロシア革命の影響で労働運動が先鋭化していった。この状況にバルセロナ総督プリモ・デ・リベラ将軍は軍事クーデターを起こし、独裁政権を樹立した(1923年)。プリモは共産党を徹底的に弾圧し、国内産業を育成して経済を発達させた。1929年にはバルセロナで万国博覧会を開催した。

 その後の世界大恐慌はスペイン経済を直撃し、国内には失業者があふれた。1930年、プリモは失脚し、第二共和政が樹立された。アルフォンソ13世はフランスに亡命し、ブルボン朝は終わった。

 第二共和政は右派と左派の対立が激しく不安定だった。1936年の選挙で左派の人民戦線派が勝利すると、連日のように社会改革を要求するデモが行われ、右派政党本部が襲撃された。この混乱に危機感を持った将校達はクーデターの準備を始めた。

スペイン内戦


ピカソの絵画ゲルニカ

1937年4月26日スペイン北部の町ゲルニカを、フランコを支援するドイツが空爆し、300人の市民が死傷した。パリでこの悲報を聞いたピカソは、空爆に抗議する絵画「ゲルニカ」を、パリ万博スペイン館の壁画に描いた。

 右派の指導者カルボ・ソテロが暗殺されると、モロッコ駐留軍が蜂起し、反乱の火はスペイン全土に広がっていった。しかし、マドリードやバルセロナでは反乱軍が市民に鎮圧されてクーデターは失敗、以後2年8ヶ月におよぶスペイン内戦が始まった。

 政府側の人民戦線をソ連とメキシコが支援、反乱軍の国民戦線をポルトガルやイタリア、ドイツが支援した。イギリスやフランスは中立を守った。また、小説家のヘミングウェイや戦場写真家ロバート・キャパなど多くの著名人も戦争に参加した(ヘミングウェイは人民戦線を支援する国際旅団に参加)。

 反乱軍のリーダーになったフランシス・フランコは、ナチス・ドイツとイタリアの支援を受け有利に戦いを進めた。1938年12月、フランコは30万の軍でカタルーニャを攻撃、バルセロナを制圧した。1939年にはマドリードに進撃し、フランコの勝利で内戦は終結した。

現在
メキシコシティにあるコロンブス像

 フランコは人民戦線派を激しく弾圧した。特に自治を求めていたバスクとカタルーニャには、バスク語やカタルーニャ語の使用を禁じ、自治の要求を圧殺した。そのため、多くの人が国外に亡命し、ETAなど反政府テロ組織が結成された。

 第二次世界大戦が勃発すると、内戦で荒廃したスペインは中立を宣言した。戦後、ファシズムの影響が残るフランコ独裁体制は各国から敬遠された。しかし、米ソ冷戦によりアメリカとの関係が改善され、1975年にフランコが83歳で亡くなるまでその体制は続いた。

 後継者は前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスが指名されブルボン朝が復活した。フアン・カルロス1世は政治の民主化を推し進め、スペインを西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家へ転換させた。2010年にETAは武装闘争の停止を発表し、スペインは平和な国として現在に至っている。

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スペインの歴史 川成洋 河出書房新社