スペインの歴史 その2
狂女フアナ

 レコンキスタを達成したスペインは活気にあふれ、コロンブスをはじめ多くの冒険家が海外に飛び出していった。そして、新たに発見した新大陸からは膨大な金・銀がスペインに流れ込んできた。イサベル女王(Isabel)のこの時代が、スペインが最も輝いた時代だった。

 イサベルとフェルナンドとの間には5人の子供がいた。しかし、彼らの多くは数奇な運命に翻弄された。次女ファナ(Juana)は、ハプスブルク家の長男フィリップと結婚した(1496年)。彼女はフィリップの美しい姿に一目惚れし熱愛した。フィリップはそんな彼女が負担になり、別な女性に手を出した。敬虔なファナは苦しみ次第に狂っていった。

 彼女の兄フアンと姉のイサベルが相次いで亡くなり、まもなく母のイサベルもこの世を去った(1504年)。そして、彼女が国を引き継ぎカスティーリャ女王となった。彼女の夫も自動的にカスティーリャ王フェリペ1世となるが、2年後に急死した。彼女は完全に正気を失い、夫の遺体を持って国中をさ迷い歩いた。彼女は狂女ファナ(Juana la Loca)と呼ばれ、3年後にはトルデシリャス(Tordesillas)のサンタ・クララ修道院に幽閉された。

 彼女には2人の息子がいた。1517年、フランドルに育った長男カルロスは初めてスペインの土を踏み、母と面会した。彼女は息子をほとんど認識できないまま、「カスティーリャの王位を委ねる」とつぶやいた。彼女は女王のまま40年以上幽閉され、1555年に75歳でこの世を去った。

 

 ファナの妹がイングランドに嫁いだカタリーナ(キャサリン)である。彼女の夫はすぐに亡くなり、彼女は弟のヘンリー8世と再婚し、娘メアリーを産んだ。しかし、ヘンリー8世はアン・ブーリンに夢中になり二人は離婚した。

 メアリーはその後イングランド女王となり、ファナの孫フェリペ2世と結婚した。

スペイン・ハプスブルク家
トルデシリャスにあるフアナ女王像

 ファナの息子であるスペイン王カルロス1世は、神聖ローマ帝国皇帝にも推挙され、カルロス5世として即位した。彼は父方からオーストリア、フランドルを含むブルゴーニュを、母方からはアラゴン、シチリア、カスティーリャ、新大陸を引き継ぎ、巨大なハプスブルク帝国が誕生した(1519年)。

 1550年になるとボリビアのポトシ銀山をはじめ新大陸で銀の鉱脈が相次いで発見され、大量の銀がスペインに持ち込まれた。銀の採掘にはインディオやアフリカ人奴隷が強制的に働かされた。過酷な労働や精錬用の水銀によって多くの人が犠牲になった(一説には800万人以上とも)。持ち込まれた銀は、フランスやオスマントルコとの戦費にあてがわれた。しかし、戦費は膨大で、財政は常に火の車だった。

 1556年、カルロスは退位した。神聖ローマ帝国を弟のフェルナンドに、スペイン、ナポリ、新大陸を息子のフェリペ2世(Felipe)に譲った。この時代がスペインの最盛期で、日の沈まぬ大帝国といわれた。

 1557年、イタリアをめぐって争っていたフランスを破り、1571年のレパントの海戦では、異母弟ドン・フアンを連合艦隊の司令官に任命してオスマン艦隊を撃破した。

ネーデルランド独立戦争
(オランダ独立戦争あるいは80年戦争)


ブレダの開城(ベラスケス作 マドリッドのプラド美術館)
【ブレダ】 オランダの町。1625年にスペイン軍が制圧。

 ネーデルラント(オランダ)はブルゴーニュ公国の一部だった。しかしブルゴーニュ王がフランスとの戦いで戦死し、一人娘のマリーが神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のもとに嫁いだため、ネーデルランドはハプスブルク家が治めるようになった(1477年)。

 スペインハプスブルク家のフェリペ2世は、ネーデルラントの経済的自由を奪い、プロテスタントを厳しく弾圧した。そのため反乱が起き、オラニエ公ウィレム1世を中心とするネーデルランド独立戦争が始まった(1568年)。スペインは直ちに鎮圧に乗り出し、カトリックの多い南部10州を制圧した。しかし、プロテスタントが多い北部7州はユトレヒト同盟(Utrecht)を結成して抵抗し、1581年に独立を宣言した。それ以後もスペインとの戦いは続き、ヨーロッパ全体を巻き込んだ泥沼の30年戦争へともつれ込んだ。そして、1648年のヴェストファーレン条約で戦争が終結し、オランダは正式に独立した。

 この頃、イギリス制圧に向かった無敵艦隊が破れ、太陽の沈まぬ大帝国スペインは大きく傾き始めた。また、ポルトガルもオスマン帝国の紅海貿易復活によりアジア貿易が衰退し、1580年にはフェリペ2世のスペインに併合された。

【ベルギーとオランダ】 ネーデルラントの南部10州が現在のベルギー、北部7州が現在のオランダ。

オランダのアジア進出
第2次英蘭戦争(1666年)

 オランダは、アジアとの香辛料貿易に目を付け、1602年に東インド会社を設立した。また、ジャワ島のイスラム王国からバタヴィア(ジャカルタ)を奪い、アジアの拠点を築いた。

 1641年にはポルトガルからマラッカやセイロン島を奪い、台湾を占拠して対中貿易を開始した。また、カトリックを禁止した江戸幕府に取り入り、スペインやポルトガルを締め出して日本との貿易を独占した。この一連の攻勢により、ポルトガル海上帝国は没落した。またイギリスは、1623年のアンボイナ事件で東南アジアから締め出され、その結果イギリスはインド経営に専念することになった。

 隆盛を誇ったオランダも、イギリスとの英蘭戦争やフランスの侵略に苦しみ、17世紀後半から徐々に衰退していった。

スペイン継承戦争
セウタから眺めたジブラルタル海峡

 1700年にカルロス2世が死ぬとスペイン・ハプスブルク家は断絶し、遺言によりフランスの ルイ14世の孫フェリペ5世が即位した。 ルイ14世の后はカルロス2世の姉だった。フランスの王位継承者がスペイン王になることに強く反発した オーストリアハプスブルグ家は、イギリスやオランダと連合してフランス・スペインに戦いを仕掛けた。 これがスペイン継承戦争である(1701〜1713年)。

 オーストリアはスペイン領ミラノを攻撃した。イギリスとオランダはフランドルに迫った。 1707年にはオーストリアはスペイン領ナポリ王国を占領した。また、スペイン国内ではバレンシアとカタルーニャが反旗を翻し、 それを支援するイギリスがジブラルタルを占領した。戦いはヨーロッパ、アメリカやカナダの植民地で繰り広げられた。

 1713年、連合軍有利のうちに講和が成立、ユトレヒト条約が結ばれた。フェリペ5世はフランスの王位継承権を放棄することでスペイン王位を認められた(スペインブルボン家の誕生)。その代わりにスペインはオーストリアにネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国にシチリアを割譲、イギリスはジブラルタルとメノルカ島を得た。イギリスはフランスから北アメリカのハドソン湾とアカディアを獲得した。スペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは連合軍から見捨てられ、フランス・スペイン軍に蹂躙された。

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【参考資料】