オスマン帝国
オスマン朝

 トルコ族は11世紀にイランに南下しセルジューク朝を建国した。彼らは西進してアナトリア(現在のトルコ)に進出しビザンツ帝国十字軍と激しくぶつかった。やがてアナトリアではセルジューク朝からルーム・セルジューク朝が独立した。この王朝のオズク族はビザンツ帝国との国境守備を任され、その部族長がオスマンである。

 やがて、東方からモンゴルが押し寄せ、ルーム・セルジューク朝はその支配下に入った。オスマンはスルタンの支配が及ばなくなった地域で勢力を拡大し、1299年にルーム・セルジューク朝から独立してオスマン朝を興した。

【Turkey】 6〜8世紀に活躍したトルコ系遊牧民はTurk(チュルク)と呼ばれ、それを漢字表記したのが突厥。セルジューク朝やオスマン朝は突厥の流れをくむ。Turkeyはトルコのことで、トルコ経由でヨーロッパに持ちこまれた七面鳥もTurkeyという。

帝国の拡大
アドリアノープルのモスク:セリミエ・ジャーミィ
(トルコのエディルネ)

 オスマンのあとを継いだオルハンは、ビザンツ帝国のブルサ(Bursa)を占領し、更に領土をマルマラ海まで拡大した。ブルサの町はオスマン帝国の首都となった。そしてビザンツ帝国の内紛に乗じて、ダーダネルス海峡を渡りガリポリを占領した。そこはもうヨーロッパだった。

 オルハンの子ムラト1世は、バルカン半島を北上し、アドリアノープル(現在のエディルネ Edirne)を占領、ここを第2の首都とした。1385年にはブルガリアに侵攻してソフィアを征服、1389年にコソヴォの戦い(Kosovo)でセルビア王ラザルを中心とするバルカン諸国連合軍を破った。この結果セルビア、マケドニア、ブルガリアはオスマン帝国の属国となった。この頃、近衛軍団イエニチェリが創設された。イエニチェリは征服地のキリスト教の子供をイスラムに改宗させ、特別教育を施した精鋭軍団である。

 コソヴォの戦い後、ムラトはセルビア貴族ミロシュ・オビリッチを謁見中に刺殺された。オスマン軍はその報復としてセルビア王ラザルや多くのセルビア貴族を処刑した。報復を恐れた多くのセルビア人はコソヴォを捨て、コソヴォにはアルバニア人が入植してきた。現在も続いているコソヴォ紛争の原因はこの時に作られた。

【ガリポリ】 トルコ語でゲリボル、第1次世界大戦では激戦地となる

コンスタンティノープル攻略

 

 

 

 

 

 

 

 

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コンスタンティノープルに入城するメフメト2世

 ムラトの子バヤズィト1世(Bayezid)は、1396年にニコポリスの戦い(ブルガリア北部の二コボル)でハンガリー王(後の神聖ローマ帝国皇帝)ジギスムント(Sigismund)率いる十字軍を撃破、領土を更に拡大した。しかし、1402年のアンカラの戦いティムールに敗れて捕虜となり、翌年獄死した。オスマン帝国は滅亡寸前にまで追い込まれた。

 バヤズィトの子メフメト1世は、1413年に即位し帝国の再建に着手した。その子ムラト2世は、1444年にブルガリアに侵攻してきたハンガリー軍(ヴァルナ十字軍)を破り、バルカン支配を広げた。

 1453年、ムラト2世の子メフメト2世ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼした。バルカン方面ではペロポネソス半島やセルビアを征服、アナトリア方面では現在のトルコ共和国の国土のほとんどを征服した。1475年、クリミア半島のモンゴル帝国の後裔国家クリミア・ハン国を服属させ、黒海を支配した。

 コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都となり、イスタンブールに名前が変わった。この頃、トプカプ宮殿(トプは大砲、カプは門の意味)やグランドバザールが築かれた。

 1514年、第9代セリム1世は、サファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディランの戦い(Chaldiran)で撃ち破る。1515年からはアラブへの遠征を開始しアルジェを占領、続いてエジプト・シリアを支配するマムルーク朝軍を破ってシリアを併合した。さらに1517年にはエジプト、パレスティナを併合し、聖地メッカ、メディナをオスマン帝国の保護下に置いた。セリム1世はマムルーク朝の庇護下にあったアッバース家からカリフの称号を譲られた。

最盛期


ロードス島の城砦

 第10代スレイマン1世のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実し、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。

 スレイマン1世はハンガリーに進出してベオグラードを攻略、続いてロードス島の聖ヨハネ騎士団を駆逐し東地中海の制海権を握った。1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を破り、ハンガリーの大半を占領した。さらに東ではサファヴィー朝からバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。

 また、ハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ帝国の都ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した(第1次ウィーン包囲)。1538年、プレヴェザの海戦で、スペイン、ヴェネツィア、法王庁連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置いた。

 スレイマンの治世は輝かしい軍事的成功に彩られ、20以上の民族を支配し、帝国は最盛期を迎えた。しかし、ウィーン包囲失敗後、国力は徐々に下降し始めていった。その原因は、無能なスルタンの登場と政治の腐敗だった。スレイマンも愛妃ロクセラーナに溺れ、政治は乱れた。

キプロス攻略

 スレイマンの死から4年後の1570年、オスマン軍10万はヴェネツィアが支配するキプロス島に上陸した。ヴェネツィアは法王ピウス5世(ピオ5世)に働きかけて、「海の十字軍」すなわちヨーロッパ連合艦隊の結成を呼びかけた。

 しかし、フランスはオスマン帝国と同盟関係にあり、ドイツは宗教改革の最中で、イギリスはイングランド国教会がローマ法王と対立しているなどの事情のため参加できなかった。十字軍に呼応したのはスペイン、ヴェネツィア、ロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団とその他イタリアの小国のみだった。

 それでもスペイン、ヴェネツィアを中心に200隻を超える連合艦隊が結成され、司令長官はスペイン王フェリぺ2世の異母弟のドン・フアン(Don Juan)、終結地はシチリアのメッシーナと決まった。

 1571年9月16日、200隻を越える連合艦隊はメッシーナを出港し、ヴェネツィアが支配するコルフ島に向かった。途中、嵐に会いながらも24日にはコルフに入港した。そこでキプロス島の拠点ファマグスタ(Famagusta)が1年におよぶ籠城戦の末陥落し、町の住民のほとんどが惨殺されたことを知った。

 怒りに燃えた連合艦隊はコルフを出港し、レパントに向けて南下した。

レパントの海戦
レパントの海戦を描いた日本の屏風

 アリ・パシャ率いるトルコ艦隊は、レパント港(Lepanto、現ギリシアのナフパクトス)に停泊していた。ヨーロッパ艦隊の動きはすでにつかんでいた。戦うか見過ごすか、意見は2つに分かれた。アリ・パシャは悩んだ末に決戦を決断した。

 1571年10月7日、300隻のトルコ艦隊はレパントを出港し、パトラス湾の出口に向かった。そこにはヨーロッパ連合艦隊が待ち受けていた。ガレー船による最後の海戦、レパントの海戦が始まった。

 両艦隊の距離が縮まり、連合艦隊の6隻のガレアス船(多くの大砲を装備した戦艦)が一斉に砲撃を開始した。トルコ艦隊は混乱したがそれをくぐりぬけ連合艦隊に接舷し白兵戦を挑んだ。ヨーロッパ側も必死に応戦した。凄惨な戦いが12時から5時まで続いた。そして、旗艦同士の戦いでアリ・パシャが討ち取られ、トルコ艦隊は惨敗した。


ドン・フアン・デ・アウストリア像
(彼が生まれたドイツのレーゲンスブルグ)

 トルコ艦隊の300隻の内、生き残れたのは40隻、3万人が死亡し、ガレー船のこぎ手のキリスト教徒奴隷15,000人が解放された。ヨーロッパ軍は初めてトルコ軍を破った。

 しかし、オスマン帝国は依然として強大で、トルコ艦隊は敗戦から半年で再建し、1573年にヴェネツィアから完全にキプロス島を奪い、翌年にはチュニスを獲得した。ヨーロッパ連合艦隊は教皇ピウス5世の死とともに解散した。英雄となったドン・フアンは兄から遠ざけられ、7年後にネーデルランドの戦場で病没した。

 ドン・キホーテの作者セルバンテスもこの海戦に参加し、左手に被弾した。

ヴェネツィアが築いたファマグスタ要塞のオセロタワー。シェークスピアの「オセロ」の舞台となった。
【オセロ (シェイクスピア)】 ムーア人オセロは、キプロスを守るヴェネツィアの指揮官で、元老院議員の娘デズデモーナと愛し合う。しかし、部下の讒言によって彼女の貞操を疑い殺してしまう。それが嘘だと知った彼は自殺する。

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【参考資料】
オスマン帝国の栄光 テレーズ・ビタール著 創元社
 バルカンの歴史 柴宜弘著 河出書房新社
レパントの海戦 塩野七生 新潮文庫
新月旗の国トルコ 武田龍夫 サイマル出版会