オスマン帝国 その2
第2次ウィーン包囲
イスタンブール(遠くに見えるのがカラタ塔)

 オスマン帝国はアジア、ヨーロッパ、アフリカの3大陸にわたる大帝国となったが、16世紀末頃から、行政機構の腐敗や無能なスルタンが排出したため、徐々に衰退していった。一方、西欧諸国は近代化の道を歩み始め、勢力図は逆転していった。

 宰相キョプリュリュ・ファズル・アフメト・パシャは国力の回復に力を注ぎ、1668年にヴェネツィアからクレタ島を奪取、1672年にはウクライナのコサックを支援してポーランドを破り、ポジーリャを獲得した。帝国の版図は最大となった。その後、義弟のカラ・ムスタファ・パシャがを継いだ。

 1683年、ハプスブルク家支配の北西ハンガリで反乱が起った。カラ・ムスタファ・パシャは、30年戦争で疲弊したオーストリアを攻めるチャンスと考え、15万の大軍でウィーンを包囲した。神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世はウィーンを脱出し、イスラム教徒からヨーロッパを防衛するよう各国に支援を要請した。

 これに、ポーランド国王ヤン3世ソビエスキが応え、ヤン3世はポーランドとドイツ領邦からなる連合軍を率いて救援に駆けつけた。ただちにヤン3世率いる連合軍はオスマン軍の本営を急襲し、包囲網を寸断した。オスマン軍は潰走し、60日におよぶ第2次ウィーン包囲は失敗した。

カルロヴィッツ条約

 1686年、ローマ教皇の呼びかけでオーストリア、ポーランド、ヴェネツィアなどが神聖同盟を結成し、キリスト教世界からイスラム勢力の追放を旗印にトルコに参戦した。更にロシアのピョートル大帝が、黒海北岸のアゾフを侵略した。トルコは各地で破れ、1699年にイギリスが仲介したカルロヴィッツ条約を受け入れ、初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲した。オーストリアにはハンガリ、トランシルヴァニア、スラボニアを、ヴェネツィアにはダルマチアを、ポーランドにはポジーリャを、そしてロシアにはアゾフを割譲した。

 この敗戦は帝国崩壊の始まりだった。その後、第一次世界大戦でオスマン帝国が滅亡するまでの200年間、帝国の領土は縮小していった。主な原因は、
 ・ロシアの侵略
 ・フランス革命の波及によるバルカン半島の民族独立
 ・西欧諸国による北アフリカ、中近東の植民地化
などである。これらの動きには、キリスト教国を優位とする十字軍の思想がある。

ロシアの侵略

 

 

 

 

 

年表に戻る


【パルテノン神殿】 アテネのアクロポリスに籠城したトルコ軍をヴェネツィア軍が攻撃した。砲弾の一発が火薬庫に命中し、パルテノン神殿は崩壊した。

 1762年にエカテリーナ2世が即位すると、再びロシアの侵略が激しくなった。1768年、ポーランドの王位継承をめぐって両国は対立し、第1次露土戦争が始った。近代化されたロシア軍は、アゾフ、コーカサス、ウクライナの3方面から襲ってきた。トルコ軍は圧倒され、1774年に黒海の自由航行、クリミアの支配権放棄を条件に休戦した。さらに、ロシアはオスマン帝国内のキリスト教徒の保護権を得て、以後、保護を口実に内政干渉を繰り返すことになる。

 1784年にはロシアはクリミアを併合し、1787年の第2次露土戦争では、ロシアはジョージア(グルジア)を奪った。1806年から第3次露土戦争が起こるが、ナポレオンのロシア遠征があり休戦する。この時セルビアが自治権を得た。

 1820年、ギリシア北西部のイオアニナで、この地方の総督アリ・パシャが反旗を翻した。このチャンスにギリシア軍が蜂起し、ギリシア独立戦争が始まった。この戦争中、キオス島でギリシア人2万人が殺害される事件が起こった。この事件は画家ドラクロワが描いたキオスの虐殺によってヨーロッパ中に伝えられ、人々を憤慨させた。ただちに義勇軍がギリシアに送り込まれた。

 トルコはエジプト総督のムハンマド・アリーに、シリアを与える条件で援軍を要請した。エジプト軍は各地でギリシア軍を破った。

ギリシア独立戦争とエジプト・トルコ戦争


アリ・パシャの城(ギリシア イオアニナ)

 ヨーロッパのキリスト教国は無条件にギリシアを支援した。1827年、ペロポネソス半島西南のナヴァリノで英仏露の連合艦隊がオスマン艦隊を破った(ナヴァリノの海戦)。翌年、戦争の機会を伺っていたロシアが参戦(第4次露土戦争)、黒海東部を南下して要塞都市カルスを占領した。この時アルメニア人がロシアに加担し、トルコとアルメニアは対立する。

 バルカン半島ではトルコ軍とロシア軍の血みどろの戦いが続いていた。ロシア軍は大きな損害を出しながらイスタンブールに迫った。ついにトルコはギリシャの自治を認め(アドリアノープル条約)、1832年のロンドン会議でギリシアは独立した。東ローマ帝国の滅亡以来、380年ぶりにギリシャ人国家が復活した。

 エジプトはトルコを支援したが、約束のシリアは貰えなかった。このため力ずくでシリアに進軍しダマスカスを占領した(エジプト・トルコ戦争)。この事態に列強が介入し、エジプトはシリアを諦める代わりに、オスマン帝国からの独立が認められた(ムハンマド・アリー朝)。この王朝は、第一次中東戦争後の共和制移行(1953年)まで続く。

欧州の病人
ギュルハネからトプカプ宮殿に入る門

 ヨーロッパ列強はバルカン半島の民族運動を利用して自国の利益を追求した。この干渉によって生じた国際問題を西欧の立場から東方問題といい、現在でもバルカン半島にしこりが残っている。特にロシアの干渉がひどく、ニコライ1世はトルコを欧州の病人と呼びその領土を狙っていた。

 トルコはようやく改革に着手した。トプカプ宮殿の庭園(ギュルハネ)で新しいミドハト憲法を発布し(1839年)、イスラム神権国家から法治国家への道を歩み始めた。しかし、その前途は多難で、1853年のクリミア戦争には何とか勝利するものの国は完全に疲弊した。

 1877年、バルカン半島の民族運動を支援するロシアが攻め込み、ブルガリアを越えてイスタンブルに迫った(第5次露土戦争)。トルコに抵抗する力はなく、ロシアの大幅な拡大を認める屈辱的なサン・ステファノ条約を結んだ。しかし、ロシアの勢力拡大を嫌う欧州各国はベルリン会議を開き、サン・ステファノ条約を修正した。その結果、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立は承認されたが、ボスニアとヘルツェゴヴィナは、戦前の密約によりオーストリア領となった。またロシアやブルガリアに割譲された領土の多くがトルコに返還された。それでも、トルコは40%の領土を失った。

 イギリスはロシアの攻撃からトルコを守ることを条件にキプロスを得た。ロシアの南下政策は挫折し、その矛先はアジアへ向けられた。

エルトゥールル号遭難事件


エルトゥールル号の遭難現場(串本トルコ記念館より)

 ベルリン会議は列強が集まって他の国や民族の問題を討議し、各国に分け前を与える典型的な帝国主義の国際会議だった。この事態にアブデュルハミト2世(Abdul Hamit)は、憲法を停止してスルタンの専制政治を復活した。

 1889年7月、トルコ海軍のエルトゥールル号が日本に向けて出港した。苦難の航海の末、翌年6月(明治23年)に横浜に入港、一行はオスマン帝国初の使節団として大歓迎を受けた。エルトゥールルとはオスマンの父の名前。

 親善訪問の予定を終え、帰途についたエルトゥールル号は、和歌山県串本沖で台風に会い遭難した。587名が死亡したが、大島村住民の救助活動で69名が救出された。日本政府も迅速に対応し、2隻の軍艦で生存者を送り届けた。また、実業家山田寅次郎は、犠牲者遺族への義援金を集め、自らイスタンブルに持参した。これらの行動はトルコの人々に大きな感動を与え、教科書にも取り上げられた。日露戦争で日本が勝つと、ロシアの圧力に苦しんでいたトルコの人々は熱狂した。

 時代は過ぎて1985年のイラン・イラク戦争の時、イラクはイラン上空の航空機を無差別に攻撃すると宣言した。日本政府の対応は遅れ、215名の日本人がイランに取り残された。困った駐イラン日本大使館は、トルコ政府に救援を要請したところ、トルコ政府は快諾、トルコ航空機を派遣して日本人全員を救出してくれた。

年表に戻る
【参考資料】
新月旗の国トルコ 武田龍夫 サイマル出版会