クリミア戦争
戦争にいたる経緯
夜のブルーモスク(イスタンブル)

 クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したオスマントルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。その発端はトルコが支配するエルサレムのキリスト教の聖地管理権の問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。元々エルサレムのキリスト教教会の管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、後にナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

 ロシアは、聖地管理権の復活とトルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。トルコはロシアの要求を拒否し、イギリスやフランスはそれを支援した。

バルカンでの戦闘

 1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領のモルドバやワラキアに進駐してきた。これに呼応してギリシャの義勇兵やマケドニアやブルガリアの反トルコ勢力が立ち上がった。トルコを支援するイギリスやフランスは艦隊を派遣し、ギリシアに圧力をかけた。そして、反トルコ勢力は補給を絶たれて鎮圧され、ロシア軍もドナウ以北にまで押し戻された。

 同じ頃、コーカサス方面からロシア軍が南下してきた。要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープ(Sinop)がロシアの攻撃目標になった。

 1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープを急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

クリミア半島

 1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。モルドバ、ワラキアに侵攻したロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。バルカン半島進出を目論むオーストリアはワラキアに進駐した。

 当初、連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だった。しかし、オーストリアがワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

 1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。セヴァストポリ包囲戦は、厳しい冬が包囲軍を悩ませた。戦闘は激烈で死傷者が増大した。負傷者はイスタンブルに移送され、ナイチンゲールらの手当てを受けた。

セヴァストポリ(Sevastopol)包囲戦

 

 

 

 

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セヴァストポリのギリシア遺跡(Wikipedia)

 包囲戦は約1年間続き、両軍の戦死者は20万を数えた。1855年3月にサルデーニャ王国が連合軍に加わると戦況が動き、9月にセバストポリは陥落した。しかしコーカサス方面では、11月にトルコ軍が守るカルスがロシア軍に占領された。

 翌1856年、オーストリアとプロイセンの調停で講和交渉が始まり、3月にパリ条約が締結された。その結果、ロシアは黒海での艦隊保有を禁止され、トルコ領内にいるギリシア正教徒の保護権も奪われた。この戦争でロシアの威信は失墜し、国内では農奴解放や軍政改革など一連の改革が始まった。

 トルコは戦勝国となったが、莫大な戦費が国家財政を苦しめた。また、ロシアと同様に黒海艦隊の保有が禁止された。途中から参戦したサルデーニャ (Sardegna)は、1861年にイタリアを統一した。フランスのナポレオン3世は、この戦争で国の威信を高め、その後外征を繰り返した。最後はプロイセンとの普仏戦争(1870〜1871年)で惨敗した。

日本への影響
日本に上陸したプチャーチン(戸田造船郷土資料博物館)

 クリミア戦争中の1853年、ペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約が締結された。ヨーロッパ列強はクリミア戦争で忙しく、東アジアに目を向ける余裕はなかったのである。

 ロシアのプチャーチンは日本に向かっていたが、クリミア戦争の影響で日本到着がペリーより遅れた。翌1854年に再来航し幕府と会談したが交渉はまとまらず、12月に下田に移動した。その時、安政の大地震に会い、旗艦ディアナ号は大破した。艦の修理のため戸田(へだ、沼津)に回航中に、今度は高波を受けて沈没してしまった。

 それでも交渉は再開され、1855年2月に日露和親条約が締結された。この条約で北方4島を日本領とし、樺太は国境を決めず両国民混住の地とすると定められた。

 日本の船大工を使って作り始めた舟は4月に完成し、プチャーチンはロシアに向けて出港できた。

ナイチンゲール
ナイチンゲール像(ロンドン)

 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)はイギリスの裕福な家庭に育った。彼女はクリミア戦争が始まると、看護師を志願し、イスタンブールのスクタリ病院で働いた。当時、傷病兵の死亡率は40%で、彼女は精力的に環境改善を行い、半年後に死亡率を2%に低下させた。

 彼女は「クリミアの天使」と呼ばれ、その後看護婦が「白衣の天使」と呼ばれるようになった。ナイチンゲールはこの呼ばれ方を嫌い、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と述べている。

 彼女は戦場から戻ると近代看護学を確立し、1880 年に看護専門学校(ナイチンゲールスクール)を設立した。この看護学校はセントトーマス病院内にある。

 彼女は看護と衛生に生涯を捧げ、その活動はスイス人アンリ・デュナンに受け継がれた。そして、「敵味方の区別なく負傷者を救う」という国際赤十字が設立された。


セントトーマス病院
逸話

【ノーベル】 スウェーデン人アルフレッド・ノーベルは、ロシア軍に機雷を納入して大儲けした。戦後、ダイナマイトの発明により大金持ちになり、遺言によりノーベル賞が創設された。

【シュリーマン】 ドイツ人ハインリヒ・シュリーマンは、ロシアに武器を密輸し、莫大な利益を上げた。この資金で子供の頃に読んだホメーロスのイーリアスの発掘事業を行いトロイ遺跡を発見した。

【天気予報】 この戦争で気象の重要性を知ったフランスは、パリ天文台のルヴェリエに暴風雨の研究をさせた。これが天気予報の起源。

【トルストイ】 ロシア軍に従軍したトルストイは、「セヴァストーポリ物語」を著した。反戦作家として日露戦争にも反対した。

【機雷】 イギリスがスウェーデンに参戦を促すためにオーランド諸島を攻撃した時、ロシア軍はバルト海封鎖のため機雷を使用した。この機雷の製造にノーベルもかかわっていた。

【カーディガン】 イギリスの司令官カーディガン伯爵は、負傷兵でも着易い前あきのセーターを考案した。これがカーディガンになった。

【ラグラン袖】 イギリスのラグラン男爵は、あり合わせの生地でオーバーを作ろうとした。戦場でも簡単に袖付けできるように、首の付け根まである袖を考えた。この袖はコートやジャケットにも採用され、「ラグラン袖」と呼ばれようになった。


ナイチンゲールの看護の様子

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【参考資料】
新月旗の国トルコ サイマル出版会 武田龍夫
 バルカンの歴史 柴宜弘著 河出書房新社