シチリアの歴史

シチリアの歴史(Sicilia)

 シチリアにはBC8世紀頃からギリシャ人が植民してきた。シチリアのことをギリシア語でシケリアといい、最大の都市がコリントスの植民都市シュラクサイ(シラクサ)だった。BC431年のペロポネソス戦争の時に、アテネは敵対するスパルタやコリントスを牽制するためシチリアに遠征するが敗れ、ギリシアの覇権を失った。

 その後シチリアにはカルタゴが侵入してきた。ギリシャとカルタゴの覇権争いが始まり、カルタゴは、シラクサとメッシーナ以外を支配した。BC265年にカルタゴとシラクサが同盟してメッシーナを攻めたことからポエニ戦争が始り、ローマはカルタゴを破ってシチリアを手中に収めた。

 5世紀になるとローマは衰退し、シチリアはゲルマン民族東ローマ帝国が支配した。9世紀になると北アフリカからイスラム勢力が侵攻し、200年にわたって支配した。

 12世紀にノルマン人がイスラムの支配を解放し、シチリアを含む南イタリアにノルマン朝シチリア王国を建てた。シチリア王国はフリードリヒ2世の時に絶頂期を迎えた。彼の死後、フランスやスペインがシチリアの支配者となった。

 1860年、シチリアはイタリアに統一された。

支配者
説明
BC8世紀
シラクサやメッシ-ナ、アグリジェント、カターニアなどの植民都市を建設
BC480
BC310年、カルタゴが島の大半を占領
BC264
カルタゴを破ったローマが支配者となる
440
ヴァンダル族や東ゴート族が侵入
535
ユスチニアヌス帝が東ゴート族を追い出す
827
パレルモを中心にイスラムの支配が始まる
1130
シチリア王国
(ノルマン朝)
ノルマン人ロベルト・ギスカルドがシチリアを征服、甥のルッジェーロ2世が初代皇帝となる
1194
ノルマン朝の後継者が断絶し、ハインリッヒ6世がシチリア王国の皇帝となる
1268
ナポリ王国
フランスルイ9世の弟シャルル・ダンジューが征服
1282
アラゴン王
シチリア晩祷事件により、スペインのアラゴン王がシチリアを支配。ナポリ王国から分離した。
1504
ナポリ王国
アラゴン王フェルナンド2世がナポリ王国(フランス)を征服してナポリとシチリアを再統一
1734
両シチリア王国
オーストリアのハプスブルグ家が支配
1860
イタリア
ガリバルディのイタリア統一
ロベルト・ギスカルド
(Ruberto Guiscardo)

シラクサのギリシア遺跡

 北アフリカを制圧したイスラム帝国は711年にスペインに進出、827年には東ローマ帝国が支配するシチリアを襲った。シチリアの町は次々と制圧され、877年にシラクサが陥落して全島をイスラムが支配した。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。シチリアには高いイスラム文化が持ち込まれ、島は発展した。

 イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルドである。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。

 風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。

シチリア王国
アラブの面影が残るモンレアーレ大聖堂

 1130年、教皇はルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世に王位を与え、シチリア王国(ノルマン朝)が誕生した。ノルマン人は支配者となったがその数は非常に少なく、自然とギリシャ人やアラブ人を多く官僚として登用した。従来のイスラム支配体制が踏襲され、イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らす国ができた。ヨーロッパが十字軍の熱狂の中にあった時代に、これは驚異のできごとだった。

 やがてノルマン朝の後継者が断絶し、ルッジェーロ2世の末娘コスタンツァ(Costanza)を妻としていた神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世がシチリア王国の支配者となった。戴冠式の翌日、コスタンツァは息子フリードリヒを出産した。この出産は、生まれてくる子が間違いなく我が子であることを皆に示すため、町の広場に張ったテントの中で行われた。

 フリードリヒが3歳の時に父が亡くなり、彼は幼くしてドイツ(神聖ローマ帝国)とシチリアの王となった(フリードリヒ2世)。彼の後見人が、イングランド王ジョンを屈服させ、イングランド全土をローマ教会に差し出させた教皇イノケンティウス3世である。

フリードリヒ2世(イタリア名:フェデリコ2世)


エルサレム(岩のドームと嘆きの壁)

 フリードリヒ2世は開放的なシチリアで育ったためイスラム文化に造詣が深く、また国際的な感覚を自然と身に付けた。1220年、彼は神聖ローマ帝国皇帝として戴冠された。彼は十字軍の派遣には否定的で教皇から破門されるが、その後武力ではなく交渉によってエルサレムを奪還した(第6回十字軍)。彼の妻はエルサレム王国の王女イザベラで、彼はエルサレム王も兼任した。

 聖職者の叙任権をめぐる皇帝と教皇の争いは激化し、北イタリアが戦場となった。北イタリアの各都市は教皇派と皇帝派に分かれて対立し、同じ都市内でも貴族が二手に分かれて争った。シェークスピアのロミオとジュリエットは、ヴェローナを舞台に教皇派ロミオと皇帝派ジュリエットの対立を背景にした悲恋の物語である。

 1250年、教皇との戦いに疲れたフリードリッヒは病に倒れ56才の生涯を終えた。彼の死後、息子のコンラート4世が後を継いでドイツ王、シチリア王、エルサレム王になったが、在位わずか4年で死去した。ホーエンシュタウフェン朝は断絶し、神聖ローマ帝国は皇帝不在の大空位時代が始まった。

シチリアのその後


ノルマン王宮(シチリア パレルモ)

 1268年、フランスのルイ9世の弟シャルル・ダンジューが教皇の支持を得て南イタリアに侵入した。シチリア王コンラーディン(コンラート4世の息子)は反撃するが破れ、シチリア王国はフランスに奪われた。

 1282年、パレルモでフランス兵による女性暴行事件が発生し、怒った住民が暴動を起こした。その時、晩祷(ばんとう:晩に行う祈り)を告げる鐘が鳴ったことからこの事件はシチリアの晩祷と言われている。暴動はシチリア全土に拡大し、スペインのアラゴン王ペドロ3世も支援に駆けつけフランス軍を破った。ペドロ3世はシチリア王に即位し、シャルルが支配するナポリ王国から分裂した。1504年、ナポリ王国はにアラゴン王フェルナンド2世によって再征服され、スペインに併合された。その後2世紀の間は「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督が統治した。

 教皇はフランス王の言いなりとなり、アビニヨンに移転させられた。北イタリアの自由都市はルネッサンスを開花させ、フランスやスペインでは、民族統一と王権による強力な国家が出現した。

 
【サラセン人】 北アフリカのイスラム教徒の呼称。ヨーロッパのキリスト教徒は、アラブ人だけでなく、ベルベル人やムーア人など全てのイスラム教徒のことをサラセン人と呼んだ。
【フリードリヒ2世の功績】 彼はナポリ大学を創設。狩りを好み、庭に作った動物園でライオンやキリンを飼った。第6回十字軍での交渉相手だったイスラムの王アル・カーミルから、象やプラネタリウムが贈られている。1231年、シチリア王国法典を発布、1240年、帝国議会を開催、後のイギリス議会の手本となった。
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【参考資料】
http://www.asahi-net.or.jp/~RB5H-IKD/puglia/federico.htm
ローマ亡き後の地中海世界 塩野七生 新潮社