日中戦争
概要

 日中戦争は、1937年から8年間も中国と戦った戦争である。満州事変にさかのぼると15年になり15年戦争ともいう。 本格的な戦闘が行われていたにもかかわらず、戦争ではなく支那事変と紛争扱いにしていた。国民は真相を知らされず、事変ならばすぐに片付くだろうと楽観していた。一方の中国は国家の存亡をかけた祖国防衛戦争を必死で戦っていたのである。

 日本はなぜ事変とごまかしていたのだろうか。最大の理由は戦争を行うための「大義名分がなかった」のである。盧溝橋事件が起きると、「支那の暴戻(ぼうれい:道理に反する行い)を膺懲(ようちょう:懲らしめる)するとして、3個師団を送り込んだ。現地では停戦に合意していたにもかかわらず戦争をしかけたのである。

 日本は中国を完全に馬鹿にしていた。中国人を「ちゃんころ」と呼び、豚以下の人間と蔑視した。問題が起きれば武力で威嚇し、一撃を加えて屈服させた。現地軍は弱い中国軍を追い回し、政府はその暴走を止めることができなかった。日本の外交はその機能を完全に失い、全ては軍の思うままに進められた。5.15事件(1932年)や2.26事件(1936年)の影響で軍には物が言えなくなっていたのである。

 日中戦争は完全な侵略戦争だった。その事実を隠すために戦争を事変と呼び、侵略を膺懲(ようちょう)とごまかした。1ヶ月くらいで片付くはずの戦争は泥沼化し、日米関係が悪化すると無謀にも太平洋戦争をしかけた。無責任な政治家や軍人は大義のない戦争をずるずるとやり続け、日本のみならず侵略した国の国民に塗炭の苦しみを味あわせたのである。

華北分離工作

 満州国建国に成功した日本は今度は隣接する華北五省を中国から分離独立させる工作を開始した。1933年、関東軍は南下して山海関を占領し、更に長城を越えて華北に乱入した。共産軍との戦いを優先する蒋介石は日本と戦う余裕はなく、万里の長城と北京の間を非武装地帯とする要求をのんだ(塘沽(とうこ)協定)。

 次に天津で親日新聞社の社長が暗殺される事件が起きた。これも日本軍の謀略で、事件を政治問題化して河北省から中国の政府機関や軍を撤退させた(梅津・何応欽協定)。また、チャハル省(内モンゴル自治区)では関東軍特務機関員4名が中国軍に監禁される事件が起きた。関東軍はすかさず圧力をかけチャハル省から中国軍を追い出した(土肥原・秦徳純協定)。

 満州に続いて華北を奪おうとする日本の動きに、中国人民は立ち上がった。各地で抗日運動が起き、抗日プロパガンダ映画「風雲児女」が作られた。日本の侵略に立ち向かおうと呼びかける主題歌「義勇軍行進曲」は民衆の心を強く揺さぶった。この歌はその後中華人民共和国の国歌となった。オリンピックでよく耳にする中国国歌は抗日反日の曲である。

 日本は傀儡政権まで作って分離工作を進めたが、中国人民の反発で挫折した。


華北五省

万里の長征

 中国を侮り次々と要求を突きつける日本に、明確に抗日の姿勢を示したのは中国共産党だった。共産党は多くの党員を満州に送り込み反満抗日運動を展開した。また、各地に革命根拠地(ソビエト)を作り、多くの農民の支持を得た。1931年11月、共産党は各地のソビエトを統合した中華ソビエト共和国瑞金に建国した。

 1934年10月、共産党の壊滅に執念を燃やす蒋介石は瑞金を包囲し猛攻を加えた。共産党軍はたまらず瑞金を放棄した。行く当てのない一行は西に逃げ、貴州省の遵義(じゅんぎ)にたどりついた。そこで遵義会議を開いて毛沢東をリーダーに選出し、日本と戦うために北上することを決めた。四川省の毛児蓋(もうじがい)に着くと、八・一宣言(抗日救国のために全同胞に告ぐる書)を発表し、党派や立場を超えて抗日に当たろうと呼びかけた。そして、1936年10月に新しい拠点延安にたどり着き、12,500kmにおよぶ万里の長征が完了した。当初10万人いた兵士は、2年間の移動で1万人に減少していた。

 八・一宣言は中国の各界各層に受け入れられた。国民に人気の高い魯迅宗慶齢(孫文の妻)も支持し、内戦を停止して抗日民族統一戦線を結成すべきと呼びかけた。西安で共産軍と戦っていた張学良(東北軍)や楊虎城(西北軍)もこの宣言に共鳴した。日本軍に父を殺された張学良は、ひそかに共産党の周恩来と会い内戦を停止して抗日にあたることを約束した。

 蒋介石は共産軍掃討が進展しないことに業を煮やし、彼らを督戦するため西安に飛んだ。


万里の長征 進路図
西安事件

 西安に着いた蒋介石に、張学良は涙を浮かべて一致抗日を訴えた。しかし蒋介石はあと一押しで共産軍を殲滅できると、頑として聞かなかった。困った張学良は蒋介石の宿舎を急襲して監禁した。そして周恩来や蒋介石夫人の宗美齢(宗慶齢の妹)、義兄の宋子文を西安に呼び懸命に説得した。蒋介石はしぶしぶ内戦停止と一致抗日に同意した。

 盧溝橋事件が起きると第2次国共合作が成立し、協力して徹底抗戦することになった。国民政府は紅軍を改編して国民革命軍第八路軍とし、朱徳を総司令に任命した。日本はこの中国の変化を気にとめていなかった。

 張学良らは軍法会議にかけられ上官暴行罪で有罪となった。蒋介石はその後も彼らを許さず、国共内戦中に楊虎城を殺害、張学良を台湾に軟禁した。彼は90歳になって名誉を回復され、ハワイに移住し2001年に100歳で亡くなった。

 張学良はNHKのインタビューでこう話している。「当時の日本軍は狂っていた。言うことをきかない者を平気で殺した。こんな軍人がいる国はとても生き残れないと思った。父を殺され、財産も奪われ、一生を台なしにされた。日本の若者は過去の日本の過ちを知り、決して武力に訴えることをしてはいけない」。靖国神社については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。神社に祀られる人は英雄であり、日本は彼らを英雄と認めたのか」 と厳しく批判した。


西安の東北にある華清宮(かせいきゅう)
唐の玄宗と楊貴妃が愛の暮らしをした温泉地。蒋介石はここに泊まっていて拉致された
盧溝橋事件ろこうきょうじけん
(Marco Polo Bridge Incident)

 義和団の乱後、天津には在留邦人保護のため1500人の支那駐屯軍が駐留していた。日中関係が緊迫していた1936年4月、日本は一方的に駐屯軍を3倍の5000人に増強した。増強部隊は盧溝橋付近に駐屯し、近くの畑や草原で傍若無人に演習を行った。中国軍は日本軍の本格的な華北侵略が始まると警戒していた。

 1937年7月7日、一木大隊150名が盧溝橋で夜間演習を行った。演習も終わりかけた午後10時40分、突然銃声が響き兵士1名が行方不明になった。大隊は「中国軍の発砲、兵1名行方不明」と本部に連絡し臨戦態勢に入った。ほどなく行方不明の兵は部隊に戻り日本軍には何ら損害はなかったが、午前3時頃再び銃声が聞こえると牟田口連隊長はすかさず攻撃命令を出し戦闘が始まった。

 日本政府は対応を協議した。陸軍の拡大派は「この際断固中国を膺懲すべき」と主張した。しかし、参謀本部の石原莞爾らは、中国に手を出すと泥沼に陥るとして不拡大の方針を決めた。これを受けて現地では停戦交渉が始まり合意した。

 停戦が合意したにもかかわらず、参謀本部の武藤作戦課長らは、「中国の約束は信用できない。内地から3個師団を増派すべき」と圧力をかけた。政府は2日前の決定をくつがえし、作戦区域を北京-天津地方に限定して派兵を認めた。この決定が日中全面戦争の引き金となった。日本の指導者たちは強硬派軍人の勇ましい言動に反論できなかった。このあまりにも無責任な政治姿勢が戦争を拡大していった。


盧溝橋 金の時代(1192年)に造られた石造りの橋。全長266.5m、橋の欄干には501基の獅子の彫像が置かれ、マルコ・ポーロは「世界で一番見事な橋」と賞賛した。西欧ではこの橋をマルコポーロの橋(Marco Polo Bridge)と呼ぶ。

【一木大隊】 1942年、ガダルカナル島で全滅
【牟田口廉也】 1944年、ビルマで無謀なインパール作戦を強行し歴史的敗北を喫した。無能な司令官の代表格

全面戦争へ

 日本軍は北京、天津を制圧し、戦闘区域を北京周辺に限定した参謀本部の指示を無視して華北一帯を占領した。そして戦火は上海に飛び火した。

 1937年8月9日、上海で海軍の大山中尉と他1名が中国軍に射殺される事件が起きた(大山事件:海軍の謀略の疑いが濃い)。上海の海軍陸戦隊4000名と中国軍は一触即発の状態となり、13日に戦闘が始まった。日本は2個師団からなる上海派遣軍を投入し、蒋介石は上海の死守を命じた。上海の中国軍はドイツ製の武器を装備しドイツ軍事顧問の訓練を受けた精鋭部隊で、上海派遣軍は苦戦に陥った。

 一撃を加えれば簡単に屈服するはずの中国軍は10月になっても抵抗を続けた。西安事件後、中国は領土や主権の侵害に徹底抗戦するように変わっていたのである。予想外の抵抗に驚いた日本は4個師団からなる第10軍を増派した。背後をつかれた中国軍は総崩れとなり、11月に上海は陥落した。

 上海派遣軍と第10軍は合体して中支那方面軍となった。この急ごしらえの方面軍は大本営の命令を待たずに南京に向かって進軍を開始した。


上海の中国軍精鋭部隊

南京大虐殺
 上海で苦戦し1万人以上の死者を出した日本軍は復讐に燃え、南京に退却する中国軍に襲いかかった。補給もなく軍紀の弛んだ部隊は食料を掠奪し、住民の殺害や強姦、放火など恥ずべき残虐行為を繰り広げた。大本営は南京攻撃を追認し、12月には南京を包囲して総攻撃が始まった。南京を落とせば戦争は終わるはずだったが、蒋介石は重慶に脱出して抵抗を続けた。中国一撃論は破綻した。

南京に入場する日本軍

 南京を占領した日本軍は、中国軍民に対して虐殺、暴行、強姦、放火など残虐の限りをつくした。中国は30万人が犠牲になったと言い、極東軍事裁判では11.5万人が殺害されたと報告した。犠牲者の正確な数は不明だが、日本軍による大規模な残虐行為が行われたことは間違いない。国民が誇りにしていた栄えある皇軍は、日本の歴史に大きな汚点を残し、中国人民の心に消すことのできない恨みを植えつけたのである。日本はこの事実から目を背けず、再びこのような事件を起こさないと誓うべきである。被害者はやられたことを決して忘れることはない。戦争は過去のこととあいまいな対応を続ける限り中国や韓国との歴史認識問題はいつまでも続く。

 現在の日本政府は南京大虐殺について、「日本軍による非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数は不明である。先の大戦における行いに対する、痛切な反省と共に、心からのお詫びの気持ちは、戦後の歴代内閣が一貫して持ち続けている」とそっけない見解を述べている(外務省のホームページ)。中国はこの日本の歴史認識に反発し、ユネスコの世界記憶遺産に「南京大虐殺」を申請して2015年に登録された(Documents of Nanjing Massacre)。


1937年12月13日東京日日新聞(現・毎日新聞)

陸軍の野田少尉と向井少尉が、南京入りまでにどちらが早く100人斬るかを競っていると報じた記事。戦時中は武勇談として賞賛されたが、戦後両名はGHQに逮捕され南京軍事法廷で死刑判決を受けた。2003年、処刑された2人の遺族はこの報道は創作であると朝日、毎日新聞を名誉棄損で訴えたが最高裁で棄却された。この裁判の原告弁護士が元防衛大臣の稲田朋美である。

徐州作戦、武漢作戦

 出口の見えない戦争に日本は駐中国ドイツ大使トラウトマンの仲介で和平交渉を始めた。しかし、日本の要求はあまりにも過大で交渉は難航し、更に南京占領後は戦勝者の立場で交渉に臨み、結局和平交渉は決裂した。この結果に近衛内閣は「蒋介石を対手(あいて)とせず」との声明を出し外交交渉を断絶、戦争終結の糸口を自ら放棄した(1938年1月)。

 中国一撃論にも和平交渉にも挫折した日本は何の展望もないまま場当たり的な大作戦を始めた。1938年5月、徐州付近に終結した60万の中国軍に対して包囲殲滅作戦を行った(徐州作戦)。7個師団 20万の兵を動員して中国軍を包囲したが、網の目は粗く中国軍は包囲網をすり抜けて脱出した。徐州は占領したが包囲作戦は失敗に終わった。

 焦る大本営は中国軍主力が駐屯する武漢と援助物資が流入する広東を占領する作戦を始めた(武漢作戦広東作戦)。日中戦争で最大規模の30万が動員され1938年8月に武漢を、10月には広州を占領した。この作戦で支那事変を一気に解決するはずだったが、中国軍はすでに退却しており壊滅させることはできなかった。蒋介石は全国民に告げる書で、広大な土地に引き込んで持久戦を行えば必ず勝てると徹底抗戦を訴えた。実際に日本の国力は疲弊し、もはや積極的な攻勢をかける余力はなく占領地を維持する持久戦に移行した。そして国力の全てを軍需へ注ぎ込む国家総動員法を発令し、国民を更に戦争へ駆り立てていった。

【火野葦平(ひのあしへい)】 徐州作戦に従軍し兵隊の生々しい姿を描いた麦と兵隊が大きな評判となった。また、東海林太郎が歌った麦と兵隊も大ヒットした。戦前は兵隊作家ともてはやされたが、戦後は戦犯作家と批判され苦悩の末に自殺した(1960年1月)。53歳だった。火野が一番こたえたのは、「わしら、あんたに騙されて戦こうたもんじゃ」という元兵士の言葉だった。

泥沼化した日中戦争

 多くの国民は何のために中国と戦っているのか知らなかった。1938年11月に近衛内閣は中国侵略を正当化する東亜新秩序の建設という声明を発表した。これは日本、満州、中国が連携して新しい秩序を作ろうというもので、ナチスドイツが「ベルサイユ体制を壊してヨーロッパ新秩序を打ち立てよう」と呼びかけたものを真似ている。この声明は「蒋介石を対手とせず」の声明を修正して中国に歩み寄りを見せたものだったが、あまりにも抽象的で建設のためになぜ戦争するのか誰も理解できなかった。その後連携の範囲を東南アジアまで広げた大東亜共栄圏が打ち出され、世界は一つの家と説く八紘一宇のスローガンが流行語になった。

 日中戦争の解決の糸口を見つけられない日本は、重慶政府を切り崩すため汪兆銘(中国では汪精衛)に近づきハノイに脱出させた。そして日本の傀儡政権である南京国民政府を設立した(1940年3月)。この政権は国民の支持を得られず日本の思惑は外れた。汪は終戦前の1944年名古屋で病死した。61歳だった。彼は「日本に寝返った裏切り者」と非難されている。

 1938年末の段階で中国には関東軍を含めて96万人が派遣され、内地には近衛師団1個師団を残すのみだった。戦死者は18万人、戦傷者は32万人で、これだけの犠牲を払っても決着させることができなかった。ちなみに日露戦争の戦死者は9万人、戦傷者は15万人である。


陸軍省発行の絵葉書(銃後の田園:福田豊四郎作) 
『支那事変二周年記念』の記念印が押され、「東亜新秩序」の標語が記載されている

ソ連との国境紛争(ノモンハン事件)

 満州ではソ連との国境紛争が頻発していた。ソ連と満州の国境線はあいまいで、数Kmの認識の違いをめぐって小競り合いが繰り返された。1938年7月、ソ連・朝鮮国境の張鼓峰という小高い山にソ連軍が侵入し陣地を構築し始めた。政府は軍事行動を禁止したが前線の朝鮮軍は師団長の独断でソ連軍を攻撃し追い払った。陸軍中央はよくやったと喜んだが、すぐにソ連軍は戦車や航空機を投入して猛反撃してきた。朝鮮軍は壊滅的な打撃を受け、日本は停戦を申し入れた。

 翌1939年5月、今度はモンゴル国境のノモンハンで関東軍とソ連軍の大規模な戦闘が始まった。この戦闘も関東軍の独断で行われた。両軍は師団規模の歩兵や、戦車、航空部隊を投入し5ヶ月にわたって戦った。日本軍は当初優勢だったが、近代装備のソ連軍に反撃され壊滅した。関東軍は総力をあげて反撃しようとしたが大本営は厳しく中止させた。ドイツがポーランドに侵入し第二次世界大戦が始まったのである(1939年9月)。

 第一次世界大戦を戦っていない日本軍の装備や戦術は古く、ソ連軍に歯が立たなかった。この敗戦の教訓は全くいかされず、日本軍が近代化されることはなかった。中国軍相手では今の装備で連戦連勝できたし、何よりも装備にかけるお金がなかった。太平洋戦争ではそのツケが回って来て悲惨な戦いを強いられることになる
ソ連軍に捕獲された95式軽戦車

 ソ連の力を思い知った日本軍は、明治以来仮想敵国としてきたソ連と戦うことを諦め、その矛先を資源が豊富な南方に向け始めた。


擱座したソ連装甲車の横で機関銃を撃つ日本兵

ノモンハン事件を拡大させた関東軍参謀の服部卓四郎辻政信らは軽い処分しか受けなかった。ほとぼりが冷めると参謀本部の作戦課に復帰し、今度は太平洋戦争を推進した。一方でやむなく退却したり捕虜になった将校は自殺を強要され、自決した連隊長や部隊長は8人におよぶ。

日本軍は作戦の失敗をひたすら隠し、失敗を教訓にして次にいかすことはしなかった。兵士には精神主義を強調して白兵突撃を行わせたが、勝手にでたらめな作戦を指導した高級将校たちは責任を追及されず悲劇は繰り返された。勇ましい強硬論を唱え、中央の統制に従わない者が積極果敢と評価される異常な組織だった。

反軍演説

 1940年2月、大戦争を戦っているのに事変とごまかしている政府に、ただ一人立憲民政党の斎藤隆夫が声を上げた。「何のための戦争か、いつまで続くのか」と鋭く追求した。陸軍は「聖戦」を冒涜していると怒り、斎藤を衆議院から除名し、演説の大半を議事録から削除した。 除名された斎藤は1942年の総選挙で兵庫5区から立候補し最高点で当選した。戦後は吉田内閣や片山内閣の国務大臣を歴任した

 その頃ヨーロッパではドイツの快進撃が続き、オランダ、フランスを席捲してパリを占領(1940年6月)、イギリスにも連日空爆を行った。日本の政府や世論は沸き立ち「バスに乗り遅れるな」とこれらの国が支配していた東南アジアに目が向けられた。まるで火事場泥棒である。9月に日独伊三国同盟が結ばれ、同時期にフランス領インドシナに進出した(北部仏印進駐)。10月にはドイツの一国一党の政治体制にならって全政党を解散し、新たな組織大政翼賛会に一本化した。こうして議会制民主主義は崩壊した。年が明けるとソ連に急接近し、日ソ中立条約を結んだ(1941年4月)。これにより一連の国境紛争は終結し、日本はモンゴルを、ソ連は満州国を実質的に承認した。

 国際情勢の変化に翻弄された日本は、面倒な支那事変を忘れたかのように無関心になった。情勢が変われば自然と解決できるのではと自らの責任を放棄したのである。そして、南方進出とそれに伴う米英との戦争に傾注していった。


斎藤隆夫
太平洋戦争へ

 日本の迷走は続く。1941年6月に独ソ戦が始まると、今度はソ連との戦争準備を始めた。これが関東軍特殊演習(関特演)で、単なる軍事演習ではなくソ連に侵攻するための16個師団50万の兵力を密かに配備した。しかし、日本が期待したドイツの進撃は止まり、極東のソ連軍兵力も減らなかったためソ連侵攻は見送られた。

 再び南方に目が向けられ、1941年7月に仏領インドシナ南部に武力進駐した(南部仏印進駐 )。怒ったアメリカは対日全面禁輸に踏み切り、イギリスやオランダも日本との通商条約を破棄した。政府はこれらの経済制裁をABCD包囲網と呼んで国民に危機感を煽った(米(America)、英(Britain)、中国(China)、蘭(Dutch))。

 1941年9月、日本はついに太平洋戦争への道を決定した。これを知ったソ連は極東の兵力をヨーロッパに移送し始めた。アメリカとの戦争に消極的だった近衛は内閣を総辞職し、開戦を主張した東條英機が総理大臣になった。12月8日、日本軍はイギリス領マレー半島に上陸、また連合艦隊はハワイの真珠湾を攻撃した。

 これを聞いた蒋介石や毛沢東は日中戦争の勝利を確信した。


炎上するアメリカ戦艦アリゾナ
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【参考資料】
昭和史講義-最新研究で見る戦争への道- 筒井清忠
昭和の歴史D日中全面戦争 藤原彰 小学館
十五年戦争史A日中戦争 鈴木隆史他 青木書店
満州事変から日中全面戦争へ 伊香俊哉 吉川弘文館
日中戦争全史(上、下) 笠原十九司 高文研
天皇の軍隊と日中戦争 藤原彰 大月書店