ペルシア帝国 |
アッシリアが滅亡するとオリエントは、エジプト、リディア、新バビロニア、メディアの 四国が分立した。BC8世紀、アーリア人の一派ペルシア人は、族長アケメネス(Achaemenid)に率いられてイラン南東部に移り住んだ。彼らは当初はメディアに従属していた。ペルシアとは、メディア人がペルシア人の居住地を辺境(ペルシス)と呼んだことに由来している。 BC552年、キュロス大王(キュロス2世)は、反乱を起こしてメディアを滅ぼした。続いてリディアや新バビロニアを滅ぼしてオリエントを統一し、広大なペルシア帝国を建設した。また、バビロニアに捕囚されていたユダヤ人を解放しエルサレムに帰した。最初の都パサルガダエにはキュロスの墓が残っている。彼はイランの建国者として称えられている。 次のカンビュセス2世(Cambyses)は、アッシリアの傀儡政権だったエジプト26王朝を征服しエジプトのファラオになった(BC525年)。続いてクシュ王国(スーダン)を攻めるが、5万の軍隊は砂漠で全滅した。この出来事は「カンビュセスの失われた軍隊(The Lost Army Of Cambyses)」という小説や、藤子・F・不二雄の「カンビュセスの籤(くじ)」というアニメに描かれている。 |
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ダレイオス1世 |
3代目のダレイオス1世(Dareios)は、エーゲ海からインダス川にまで版図を広げ、帝国は最盛期を迎えた。彼は法による支配を目指し、全国を20の州に分け各州に知事(サトラップ)を派遣した。さらに、その知事を監視するため王の目、王の耳と呼ばれる監察官も派遣した。スーサからサルディスに至る2700kmは王の道と呼ばれる幹線道路で結ばれ、僅か7日間で移動できるようになった。また、貨幣を発行して税制を整え、フェニキア人の海上貿易を保護して財政の基礎を固めた。 服属した異民族にはその風習を尊重し、自治を認める寛容な政治を行って200年間オリエントを支配した。宗教はゾロアスター教が信じられた。 ダレイオス1世は、自分の即位の正当性を示す文章とレリーフをベヒストゥン磨崖碑(Bistoon Kermanshah)に刻んだ。ダレイオスに背いた9人の王を後ろ手に縛って王の前に引き立てている。この遺跡は、楔形文字解読の手がかりとなった。 |
ベヒストゥン磨崖碑 (イラン) |
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ペルセポリス(Persepolis)とスーサ(susa) |
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ペルセポリス | ||||||
ペルシア戦争 |
トルコ南西部にあるギリシア植民都市ミレトスは、ペルシアに対して反乱を起こした(イオニアの反乱)。アテネはこの反乱を支援するが、BC494年のラデ島沖の戦いで敗れ反乱は鎮圧された。 ダレイオスは帝国に背いたギリシャに激怒し、遠征を開始した。ここにペルシャ戦争が始まった。第一回の遠征はアトス岬沖で大しけに遭い、ペルシア軍はそのまま撤退した。BC490年、今度は本格的な軍を派遣するが、アテネの重装歩兵により、マラトンで大敗する。ダレイオスは次の遠征準備中に死亡した。 BC480年、ダレイオスの後を継いだクセルクセス1世が、1207隻の軍船を率いてギリシアに侵攻した。ペルシア軍はテルモピュライの戦いでスパルタの軍勢を破りアテネを占領した。しかし、サラミスの海戦で大敗し撤退した。ギリシア侵攻は失敗し、カリアスの和約により和睦した。 |
ミレトスの遺跡 |
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ギリシャ遠征に失敗したクセルクス1世は側近に暗殺され、最後の皇帝ダレイオス3世が即位した。しかし、ペルシアに侵攻してきたアレクサンドロスにイッソスの戦いやガウガメラの戦いで敗れ、アケメネス朝は滅亡した。
【オンブラ・マイ・フ】 ヘンデルが作曲したオペラ「セルセ」(Serse:クセルクセスのこと)の中で歌われる歌。ラルゴともいう。日本語では「優しい木陰」とか「樹木の陰で」とか訳されている。オンブラ(Ombra)はイタリア語で「影」、マイ・フ(mai fu)は「今までになかった」という意味。クセルクセス1世が木陰をめでる内容の歌である。 |
ダレイオス1世謁見の図:イラン考古学博物館 |
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エステル
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クセルクセス1世の王妃ワシュティは王に逆らったため追放された。そして、新しい王妃が募集され美しい娘エステルが選ばれた。彼女は、バビロンの捕囚で連れてこられたユダヤ人の子孫だった。バビロンに捕囚されていたユダヤ人はBC539年にペルシア王によって解放されたが、まだ多くのユダヤ人がペルシア国内に留まっていた。幼い頃に孤児になった彼女は従兄弟のモルデカイに育てられた。 ペルシアの宰相ハマンは自分に反抗するモデルカイに腹を立てていた。そして、彼を死刑にし国内のユダヤ人を撲滅しようと企んだ。その計画を知ったエステルは、民族を救うために決死の覚悟で王に直訴した。自分がユダヤ人であること、ユダヤ民族がハマンによって滅ぼされそうになっていることを必死で訴えた。エステルを愛していた王は怒り、ハマンを処刑した。この話はBC5世紀ころのペルシアを舞台にしたエステル記に描かれている。現在でもユダヤ人はこの話を記念するプリムの祭を祝っている。 |
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