ギリシア その1
ギリシア世界

 地中海沿岸は小アジアからイベリア半島まで、共通の自然条件を持っている。土地は石灰岩質でやせ、雨は少なく、オリーヴやブドウの栽培と羊の牧畜に適している。人々は海岸に沿って都市を作り、地中海が都市と都市を結ぶ交通路になり、各地の特産品が取引され文化が伝播した。ヨーロッパ古代文明に大きな役割を果たしたのはギリシア人とイタリア人である。

 BC1200年頃、ドーリア人の侵入により、ミケーネ文明は滅び、先住のギリシア人はエーゲ海の島や小アジアに移住した。その混乱はBC800年頃におさまり、ギリシア各地に都市国家ポリスが作られた。また、フェニキア人との交流によってアルファベットが作られ、BC15世紀頃から口承で伝えられてきたギリシア神話が文字で記録されるようになった。代表的なものがホメロスイリアスオデュッセイア、ヘシオドスの神統記である。


ミケーネ王アガメムノン(アテネ考古学博物館)

ポリス

 ギリシア各地には1000〜1500の都市国家ポリスが作られた。ポリスはそれぞれが独立国家で、ポリス間で戦争が絶えず、ギリシアという一つの国にまとまることはなかった。

 しかし、ギリシア人は共通の言語や宗教、デルファイのアポロン神殿の神託、オリンピアの祭典など、一つの民族としての同胞意識を失わなかった。自分たちをヘレネス、異民族をバルバロイ(汚い言葉を話す人)と呼んで区別した。ポリスには当初は王がいたが、オリエントのような専制君主ではなく、実際の政治は貴族が行っていた。身分制度は、貴族、平民、奴隷の3種類だった。 

 ポリスの真ん中に小高い丘アクロポリスがあり、神殿が建っている。ふもとにはアゴラと呼ばれる広場があり、ここが政治、経済の中心である。市民たちはここに集り、商業や政治、裁判が行われた。その周りに市民の住宅があり、その外に城壁が築かれていた。ポリスは日本の県くらいの大きさで、代表的なポリスがアテネスパルタである。

【バルバロイ】野蛮人のこと。バーバリアン(barbarian)の語源。


パルテノン神殿

宗教

 

 

 

年表に戻る

 宗教は、ギリシア神話の主神ゼウス、その妻ヘラ、ポセイドン(海と大地の神)、アポロン(太陽の神)、アテナ(知恵の神)、アフロディテ(美の女神)などオリンポス12神(オリンポス山にすんでいる神)が信仰された。

 デルフィ(Delphi)の守護神アポロンの神託は有名で、全ギリシアのポリスが宣戦・講和・植民の是非などを尋ねた。


古代オリンピックの入場門

デルフィのアポロン神殿
大ギリシア(マグナ・グラエキア:Magna Graecia)

 ポリスの人口が増加してくると、ギリシア人は黒海沿岸やイタリア、シチリアに進出して植民都市を建設した。代表的な町は、フランスのマルセイユ、トルコのイスタンブール、シチリアのシラクサ、メッシーナなどである。ギリシア人が植民した南イタリアやシチリア島一帯をマグナ・グラエキア(大ギリシア)という。シチリアではカルタゴと覇権をめぐる争いが数世紀にわたって行われた(シケリア戦争)。

 海外貿易が盛んになると、リディアから伝わった貨幣が使われ経済が発達した。平民の中に豊かな者が現れ、徐々に政治に参加するようになった。BC6世紀にアテネの政治家ソロンは、持っている財産によって市民の権利を定めた(ソロンの改革)。また、クレイステネスは僭主の出現を阻むため陶片追放の制度を設けた。こうしてギリシアの民主主義が形成されていった。

陶片追放】陶器の破片に悪い指導者の名前を書いて投票し、それが6000票以上になると、10年間国外に追放する制度
僭主(せんしゅ:tyrant)】皇統や王統の血筋でなく、力で君主の座を奪った者


ミレトスの遺跡
イオニアの反乱
 小アジアの西岸イオニア地方には、ミレトスを中心とする多くのギリシア植民都市が建設された。しかし、イランのアケメネス朝ペルシアが小アジアやエジプトに進出してくると、イオニアの植民都市もペルシアに征服された。BC500年、ペルシアの圧政に対してミレトスを中心にギリシア植民都市が反乱を起こした。彼らはギリシアに救援を求め、アテネとエレトリアは軍艦を派遣した。

 ペルシアはすばやく反撃し、BC494年にラデ沖海戦でギリシア海軍を撃破し、イオニアの諸都市を占領した。ミレトスは徹底的に破壊され、男は全て殺され、女子供は奴隷としてスーサに送られた。

 BC492年、ペルシアのダレイオス1世は、イオニアの反乱に加担したアテネとエレトリアを懲らしめるためギリシアに遠征軍を派遣した。こうして3回にわたるペルシア戦争が始まった。

年表に戻る

ギリシア その2へ→