ティムール帝国 | ティムール像(サマルカンド) |
1321年、チャガタイ・ハン国は相続争いで東西に分裂し、各地に豪族が乱立した。ティムールは1336年にモンゴル貴族の家に生まれた。彼は指導者としての優れた能力を発揮し、部下の数を増やして次第に有力者にのし上がっていった。 1370年、西チャガタイ・ハン国を統一しティムール帝国を築いた。首都はサマルカンド。 ティムールはチンギス・ハンの築いた世界帝国の再現を夢見て、外征を繰り返した。ティムールは軍事的な天才で、戦いには一度も負けたことがなかった。 ティムールは戦場で片足を負傷し、欧米ではタメルラン(Tamerlane:跛行のティムール)というあだ名で呼ばれている。 |
勢力の拡大 |
ティムールは建国直後から、西チャガタイ・ハン国、ホラズムなどの周辺諸国に進出し、支配下に治めた。1378年にはキプチャク・ハン国を攻め、都サライを破壊した。 次に、分裂状態にあったイルハン国に進出し、アフガニスタン、イラン、イラク、アルメニア、グルジアを支配下に置いた。さらに北上してカフカスを越えルーシ諸国(ロシア)に侵入した。 1396年にはインドに遠征し、デリー・スルタン朝の都デリーを占領し略奪した。翌年には、アゼルバイジャンを統治していた三男が反乱をおこしたため遠征し、グルジアにも侵攻した。さらに、マルムーク朝からシリアを奪い、ダマスカスを占領、続いてイラクにも進出し、バグダードに入城した。 |
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バヤズィト1世のもとへ訪れるティムール |
1402年には中央アナトリアに進出し、バヤズィト1世率いる12万のオスマン軍をアンカラの戦いで破り、バヤズィト1世を捕虜にした。オスマントルコは壊滅的な打撃を受け、オスマン軍に包囲されていたビザンツ帝国は窮地を脱することができた。 これらの一連の遠征で、チムールはモンゴル帝国の西半分の領土を手中に収めた。そして、オスマン朝やマムルーク朝はティムールに服属した。 オスマン帝国を破って西の脅威を取り除いたティムールは、モンゴルの元を滅ぼした明を討伐するため中国遠征の準備にとりかかった。1404年、ティムールは20万の遠征軍は率いサマルカンドを出発したが、遠征途中で病に倒れ、カザフスタンのオトラルで病没した(1405年)。69歳だった。 |
帝国のその後 |
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ティムールの死後しばらくして後継者争いのため国は分裂、1500年頃ウズベク人勢力にサマルカンドを占領され、140年続いたティムール朝は滅亡した。ティムールの子孫バーブルはインドのデリーに逃れ、1526年にムガル帝国を建国する。また、イランではシーア派のサファヴィー朝が、またブハラを中心に シャイバーン朝(ブハラ・ハン国)が興り、互いに抗争を繰り返した。 やがて、大航海時代が到来し、シルクロードはさびれていった。また戦いに火器や巨砲が使われ始め、騎馬遊牧民族の軍事的優位性は失われた。その後二度と中央アジアに大帝国が建設されることはなく、ロシアと清の二大強国が侵略してきた。 |
グリ・アミール廟 | グリ・アミール廟 出典:ハシムの世界史への旅 |
ティムールはサマルカンドのグリ・アミール廟(アミールの墓)に眠っている。その棺の裏には「私がこの墓から出た時、大きな災いが起こる」と刻印されていた。 1941年、ソ連の調査団が開封し、ティムールの脚の障害などを確認した。その3日後、バルバロッサ作戦(第二次世界大戦のドイツのソ連侵攻)が実行された。これに恐怖を感じたソ連は棺を鉛で溶接した。これ以後この棺は開封されていない。 |
年表に戻る | 【参考資料】 中央ユーラシア史 小松久男 山川出版社 |