あらすじ | ローマ教皇ウルバヌス2世 |
十字軍とは、ヨーロッパのキリスト教国が、聖地エルサレムをイスラム教国から奪還するために派遣した遠征軍である。1096年から200年にわたって聖地エルサレムをめぐる戦いが繰り広げられた。キリスト教国側から見れば義軍(異教徒に対する正義の戦い)だったが、イスラム諸国や東方正教会諸国から見れば残忍な侵略軍だった。 発端はセルジューク朝の侵略に苦しんだビザンツ帝国(東ローマ帝国)が、ローマ教皇に救援を求めたことによる。教皇ウルバヌス2世はクレルモン教会会議を開き、軍事行動を呼びかけた。「神がそれを望んでおられる」 呼びかけに応じた騎士たちは、エルサレムを占領し多くの市民を殺害した。そして、シリアからパレスチナにかけてエルサレム王国などの十字軍国家を建設した。 |
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クレルモン教会会議(1095年)と第1回十字軍(1096〜99年)
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エデッサ城(トルコ:シャンルウルファ) |
ビザンツ皇帝 の救援要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、フランスのクレルモン・フェランで教会会議を開き、異教徒に奪われた聖地奪回を呼びかけた。「聖地におもむく者はこの世の罪が許される」と宣言した。 第1回十字軍に参加する騎士たちはコンスタンティノープルに集結した。ビザンツ皇帝に臣下の礼をとり、総勢2万の軍勢でボスポラス海峡を渡り、ルーム・セルジューク朝の首都ニカイア(トルコのイズミク)を攻め落とした。更にトルコ軍の攻撃を排除しながらアンティオキア(トルコのアンタキヤ)に到達し、半年に及ぶ攻城戦の末にこれを落とした。この攻城戦に活躍したのが、シチリアから参加したボエモン(Bohemund:ロベルト・ギスカルドの長男)である。彼はアンティオキアに留まり、アンティオキア公国を建国した。 北フランスから参加したボードゥアン(Baudouin)は本隊から離れてエデッサに向かった。エデッサはキリスト教徒の町で、トルコ人の掠奪に苦しんでいた。ボードゥアンは敵の攻撃から町を守り、町の支配を任されてエデッサ伯国を建国した。彼は後にエルサレム王国の国王となる。 |
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エルサレム王国 |
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1099年、十字軍本隊はエジプトのファーティマ朝が支配するエルサレムに到達、激しい攻城戦の末にエルサレムを占領した。イスラム教徒とユダヤ教徒は虐殺され、8万人の市民が犠牲になったといわれている。掠奪と虐殺は2日間続き、十字軍の極悪非道な振る舞いはイスラム世界に大きな衝撃を与えた。聖地回復を呼びかけたウルバヌス2世は、エルサレム占領の14日後に亡くなり、聖地回復の知らせを聞けなかった。 十字軍は占領地を守るためエルサレム王国を建国し、フランスの騎士ゴドフロワ・ド・ブイヨンを国王に選んだ。ゴドフロアは1年後に死亡し、弟のエデッサ伯ボードゥアン1世が後を継いだ。 エルサレム王国は拡大を続け、アッコンやベイルートなどの沿岸都市を次々に征服した。1103年にはジェノバの支援によりトリポリを攻略し、そこにトリポリ伯国を建国した。【十字軍国家】北からエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国の4ヶ国 |
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宗教騎士団 |
エルサレム占領後、兵士は帰国し現地軍は兵員不足になった。ローマ教皇は宗教騎士団(騎士修道会)を認可し、十字軍国家の防衛の主力とした。
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第2回十字軍 1147年 |
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イスラム世界はバグダードのアッバース朝(スンニ派)とカイロのファーティマ朝(シーア派)に分裂していた。アッバース朝のカリフは政治的な力はなく、セルジューク朝のスルタンが実権を握っていた。 セルジューク朝は十字軍がやってくる直前に、ルームセルジューク朝、シリア朝、イラン朝に分裂して弱体化していた。しかし、十字軍の残虐さに直面すると、イスラム側にも十字軍を共通の敵とする一体感ができた。セルジューク朝のモスル(イラク)の太守だったザンギー(Zangi)は、ザンギー朝を起こし十字軍に対する反攻(ジハード)を開始した。 1144年、ザンギーはエデッサ伯国を攻めこれを攻め落とした。これが第2回十字軍の原因となった。この十字軍はフランス国王ルイ7世とドイツ皇帝コンラート3世が参加した。1147年、十字軍は出発したが、ルームセルジューク朝軍に襲われ大打撃を受けながら一部がエルサレムにたどりついた。 十字軍は、エルサレム国王ボードゥアン3世とともにダマスカスを包囲した。しかし、ダマスカスを攻撃する目的があいまいで戦意が低い十字軍は僅か4日後に退却した。その後、十字軍は何の成果もなく解散した。 |
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サラディン | ティベリア(イスラエル) 八ッティンの戦いでは、イスラム軍はティベリア湖付近に野営した。水の有無が戦いの勝敗を決めた。 |
1146年、ザンギーは突然暗殺され、息子のヌール・アッディーンが継いだ。彼はアンティオキア公国やエデッサ伯国の残党を滅ぼしシリアを統一、1169年にはエジプトに侵攻したエルサレム王国を撃退するため支援軍を派遣した。 1171年、エジプトのファーティマ朝のカリフが死去すると、ヌール・アッディーンの部下サラーフ・アッディーン(サラディン:Saladin)が君主となりアイユーブ朝を開いた。エジプトのイスラム教はシーア派からスンニ派に変わった。 1187年、サラディンは十字軍に対する聖戦を呼びかけ、3万の大軍を率いて出撃、ガリラヤ湖岸のティベリアを攻撃した。これはおとり作戦だった。これに引っかかったエルサレム王は2万の軍を出撃させた。先を急ぐ十字軍は水もないまま一日中行軍し、八ッティンの丘で野営した。夜が明けて真夏の日が昇ると丘はイスラム軍に包囲されており、十字軍は壊滅的な敗北を喫した(ハッティンの戦い:Battle of Hattin)。 勢いに乗るイスラム軍はアッコやベイルートなどの沿岸都市を次々と征服し、ついにエルサレムを奪回した。 |
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第3回十字軍 (1189−92年) |
十字軍兵士の帰還(ボン、ライン国立博物館) |
この事態に教皇グレゴリウス8世は、新たな十字軍を呼びかけた。これに応じたのが、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世、フランス国王フィリップ2世、イングランド国王リチャード1世だった。 1189年、フリードリヒ1世は第一陣として出発、ルーム・セルジューク朝の首都コンヤを占領した。しかし、フリードリヒは行軍の途中に川で溺死しドイツ軍は解散した。リチャード1世とフィリップ2世は海路でパレスチナに上陸し、アッコンを攻略した。しかし、両者は主導権争い起こしフィリップは帰国してしまった。 単身パレスチナに残ったリチャード1世はサラディンと激しく戦った。一時はエルサレム目前にまで迫ったがそれ以上は進めず、軍勢は疲弊していった。1192年、1年以上の交渉の末、アッコンなどのいくつかの港をエルサレム王国の管理下に置くという休戦協定を結び、第3回十字軍は解散した。この十字軍が聖地回復を目的とする最後の十字軍となった。 エルサレムは奪還できなかったがエルサレム王国は存続し、アッコンが事実上の首都となった。 |
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第4回十字軍(1202-04年) | コンスタンティノープルから掠奪した4頭の馬の像 (ヴェネツィア サン・マルコ寺院) |
教皇インノケンティウス3世は第4回十字軍を呼びかけ、エジプトのアイユーブ朝を攻略すべく、北フランスの騎士団を中心にヴェネツィアに集結した。しかし、予定の人数が集まらず、約束した船賃を支払うことができなくなった。ヴェネツィアは、かつて支配していたザラ(Zara、クロアチアのザダル)を攻略すれば支払延期に応じてもよい提案した。背に腹は代えられない十字軍はザラを攻撃し占領した。 そのザラに、亡命していたビザンツのアレクシオス皇子が現れ、帝位に就くための助力を要請してきた。多額の見返りに目がくらんだ十字軍はコンスタンティノープルを攻撃し、アレクシオスを帝位に就けた。しかし彼には約束の金を支払う能力がなく、怒った十字軍は破壊と暴行の限りを尽くした。この時、多くの美術品が西欧に持ち去られた。そして、コンスタンティノープルにはフランドル伯ボードゥアンを皇帝とするラテン帝国が建国された(1204年)。 教皇インノケンティウス3世は逸脱した十字軍やヴェネツィアを破門したが、結局ラテン帝国を承認した。十字軍はそのままコンスタンティノープルに居座り聖地に向かわなかった。ビザンツ帝国は一旦消滅し、ニカイアに亡命国家であるニカイア帝国(1204〜61)を作った。 |
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第5回十字軍 (1217-1221年) |
セントニコラス要塞(ギリシア ロードス島) |
第4回十字軍がエルサレムに向かわないため、教皇ホノリウス3世は新たな十字軍を呼びかけた。しかし、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世はイスラム教徒との戦いに消極的であり、十字軍の中核だったフランスはアルビジョワ十字軍を派遣していて余裕がなかった。結局、ハンガリー王やオーストリア候が参加した。 1217年、ハンガリー王エンドレ2世とオーストリア公レオポルト6世がアッコンに到着し、現地のエルサレム王国軍と合流した。十字軍はシリアで小規模の戦闘を行ったが成果はなく、ハンガリー王やアンティオキア公は帰国した。残った十字軍は、敵の本拠地エジプトに向かって軍を進め、1年にわたる包囲戦の末にダミエッタを占領した。その後、カイロに進撃したが敗れ降伏した。 この十字軍が教皇主導の最後の十字軍で、これ以降は国王主導の十字軍となる。 |
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フリードリヒが戴冠式を行った聖墳墓教会(エルサレム) |
神聖ローマ帝国フリードリヒ2世は、教皇から十字軍に参加するよう迫られるがなかなか出陣しなかった。1228年、ようやく重い腰を上げたフリードリッヒは第6回十字軍を起こした。彼は最初から戦う気はなく、外交交渉による聖地回復を模索していた。 一方、アイユーブ朝にも十字軍を迎え撃つ余力はなく、スルタンアル・カミール(サラディンの甥)も講和を決意した。1229年、10年間の休戦とエルサレムを西欧に返還することを取り決めたヤッファ条約が結ばれ、フリードリッヒがエルサレム王に即位した。フリードリヒとアル・カミールはお互いのその人物を認め合い、深い交際が続いた。 この十字軍はエルサレムを無血で奪回したのに、西欧の評価は低かった。フリードリヒは教皇との争いに忙殺され、再びパレスチナを訪れることはなかった。また、イスラムとの和平も長続きせず、休戦協定が切れるとエルサレムは再び占領された(1244年)。 |
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第7回十字軍 (1248−54年) |
捕虜となったルイ9世 |
再び占領されたエルサレムを奪還するため、信仰心の厚いフランス王ルイ9世が十字軍を起こした。1249年、エジプトを攻めダミエッタを占領した。その後カイロに進軍するが戦線は膠着し、最後はイスラム軍に包囲されて全員捕虜となってしまった。結局、ダミエッタなどの占領地を放棄し、多額の身代金を払って解放された。 その後、十字軍はアッコンを拠点にシリアに勢力拡大を試みたが成果はあがらず、1254年にフランスに戻った。ルイ9世は敬虔なキリスト教信者でカトリック教会より列聖され、聖ルイ(SaintLouis)となった。この名前はアメリカの都市セント・ルイスの語源である。 エジプトではこの十字軍との戦闘中の1250年にトルコ人傭兵がクーデータを起こし、アイユーブ朝を倒してマムルーク朝を建国した。マムルークとは奴隷出身の軍人のこと。この王朝は、1517年にオスマントルコのセリム1世に滅ぼされるまで存続する。 |
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第8回十字軍 (1270年) |
アッコンの要塞(イスラエルのアッコ) 後のナポレオンの攻撃も退けた |
聖地奪回に執念を燃やすルイ9世は、第8回十字軍を起こし、チュニジアを攻撃した。しかし、チュニジア上陸後ほどなくルイ9世は病死し、何の成果もなく引き上げた。これが最後の十字軍となった。 エジプトのマムルーク朝は、モンゴルの侵攻をアイン・ジャールート(Ayn Jalut ゴリアテの泉)で撃破し、十字軍国家の攻略に乗り出した。1289年にトリポリを落とし、1291年に最後の拠点アッコン(アッコ)を占領した。ティール、シドン、ベイルートは戦わずに放棄され十字軍国家は壊滅した。イスラム軍は二度と十字軍がやって来ないようにするため、これらの町を破壊した。 十字軍はイスラム側から見れば侵略者である。このため、十字のシンボルを用いる赤十字は、現在もイスラム圏では忌避されており、赤新月などの別の言葉やシンボルで活動している。 |
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アルビジョア十字軍(1209〜) | ベジエの町とサンナザーレ教会(SaintNazaire) |
アルビジョア十字軍とは、南フランスに広まったキリスト教カタリ派を掃討した十字軍である。カタリ(Cathari)とは純粋を意味するギリシャ語のカタロスに由来していて、アルビの町が信仰の中心都市だったことからアルビ派とも呼ばれた。カタリ派は厳格な禁欲主義をとり、カトリック教会の堕落を批判した。 カトリック教会はカタリ派と話し合うため特使を派遣したが、その特使が暗殺され、これに激怒したローマ教皇インノケンティウス3世は十字軍を呼びかけた。1209年、北フランスの諸侯ら1万の十字軍は南フランスのベジエを襲い、サン・ナザーレ教会に立てこもった15,000人の住民を虐殺した。続いてカルカソンヌやアルビなど周辺の都市を制圧した。十字軍の残虐行為にトゥールーズ伯ら南仏の諸侯たちは強く反発し、戦いは泥沼化していった。 1226年になると国王ルイ8世が新しい十字軍を編成して攻め込み、続いて跡を継いだルイ9世がトゥールーズの町を制圧した。追い詰められたカタリ派は、険しい山の上の城砦に身を潜めたが、1244年にモンツェギュール(Montsegur)の砦が陥落して組織的な抵抗は終わった。最後の信者が火刑になってカタリ派は全滅したのは1330年のことである。 |
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少年十字軍(1212年) | 道路上に描かれたネズミの絵(ハメルン ドイツ) |
第4回十字軍後、教皇インノケンティウス3世は新しい十字軍を起こすために、各地に説教師を派遣した。同じ頃、フランスの羊飼いの少年エティエンヌは、巡礼姿の神を見た。神は「聖地回復」と書いた手紙を少年に渡した。エティエンヌは神のお告げを説いてまわり、数千人の少年少女が集まった。 彼らは聖地に渡るためマルセイユにやって来たが、船賃を持っていなかった。ある船主が「お前達の殊勝な心がけに感心した。船に乗せてあげよう」と申し出た。彼らは7艘の船に分乗、マルセイユを出帆した。しかし、2艘は嵐で難破し、残りの5艘がアレクサンドリアにたどり着いた。そして少年たちは奴隷として売り飛ばされた。 【ハメルンの笛吹き男】グリム兄弟が書いた民話。1284年頃、鼠捕りを名乗る一人の男がハメルンにやって来た。人々は男にネズミ退治を依頼した。男は笛を吹き、ネズミの群れを川におびき寄せて溺死させた。しかし、人々は男に報酬を払わなかった。男は街を去ったが、数週間後に戻って来た。笛を吹きながら通りを歩くと、子供たちが出てきて男のあとに続き、洞窟の中に誘い入れられた。洞窟は内側から封印された。子供達は街を出て少年十字軍に参加したのではといわれている。 |
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【参考資料】
十字軍 ジョルジュタート著 創元社 物語 中東の歴史 牟田口義郎著 中公新書 |