贖宥状(しょくゆうじょう) | 贖宥状の販売 (日本では贖宥状は免罪符と訳された) |
キリスト教徒が犯した罪は、まず神の代理人である聖職者(教会)に告白し、聖職者から課せられた罰(償いの行為)を行うことで償われた。償いの行為には祈り、巡礼、断食などがあり、これを贖宥(indulgence)という。十字軍の頃には十字軍に従軍することが償いの行為とされた。従軍できない者には罰を軽減する証明書(贖宥状)が販売され、これを購入すれば償いの行為は免除された。十字軍が下火になると贖宥状も販売されなくなったが、15世紀頃から資金集めの手段として復活した。 1513年にローマ教皇に就任したレオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂の建築のためドイツの豪商フッガー家から資金を調達し、その借金を返済するため大量の贖宥状を販売した。贖宥状は主にドイツで販売され、お金を払えば簡単に罪が許される風潮が広まった。 ドイツの神学者マルティン・ルターは贖宥状の販売を厳しく批判した。そして堕落したキリスト教会に対する宗教改革運動が起こり、ヨーロッパ全土に拡がった。改革派はプロテスタントと呼ばれ、1555年のアウグスブルクの和議でその権利が認められ、カトリック教会から独立した。 |
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ヴィッテンベルク城教会(ドイツ Wittenberg) |
それでも多くの諸侯や民衆はルター支持した。この動きに神聖ローマ帝国皇帝カール5世は帝国が分裂することを恐れ、ヴォルムス(Worms)で帝国議会を開催した。ヴォルムスはドイツの町で叙任権闘争を終結させたヴォルムス協約(1122年)が結ばれた所である。 |
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ルターの戦い | ボルムスのルター像 |
帝国議会はルターを召喚し、教会批判を撤回するように迫った。彼は「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と言って拒絶した。
ルターのドイツ語に翻訳した聖書はオランダの人文学者エラスムス(Erasmus)が著した聖書をモデルにしている。当初エラスムスはルターに好意的だったが、ルターの活動が政治問題になると対立するようになった。 |
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ルターがかくまわれたヴァルトブルク城(Wartburg) |
ルターの主張は、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝に不満を持つ諸侯や農民に影響を与えた。騎士たちは教会領を没収しようと反乱を起こし、重税に苦しむ農民たちも各地で立ち上がった。 1524年に南ドイツで起きた農民の反乱は全土に広がり、ドイツ農民戦争に発展した。この反乱を指導したのがルターの同志だったミュンツァー(Muntzer)である。ルターは農民たちに同情したが、運動が激化すると鎮圧側の諸侯たちを支持した。結局この反乱は農民10万人が殺されて鎮圧され、ミュンツァーも処刑された。その後、南ドイツの農民たちはルターを嫌い、カトリックを信仰するようになった。 1531年、神聖ローマ皇帝に反発するプロテスタント諸侯はシュマルカルデン(Schmalkalden)において反皇帝同盟を結び、皇帝を頂点とするカトリック勢力と戦いを始めた(シュマルカルデン戦争)。1546年に始まったこの戦争は、9年間続き、1555年のアウグスブルクの和議で決着した。この和議でルター派は容認された。しかし、住民は信仰を自由に選択できず、領主が信仰する宗教に従わざるをえなかった。 |
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ユグノー戦争 | 聖バルテルミーの虐殺(ローザンヌ美術館) |
フランスやネーデルラント(オランダ、ベルギー)では、スイスで宗教改革を始めたカルヴァン(Calvin)の教えが広まった。彼の教えは厳格な禁欲主義で「その人が救われるかどうかはあらかじめ神が決めている」というものだった(予定説)。 カルヴァン派はフランスではユグノー(huguenot)と呼ばれ、南フランスを中心に広まった。1562年、カトリック派は ヴァシーの町で日曜礼拝中のユグノーを虐殺し(ヴァシーの虐殺)、これを契機に30年にわたるユグノー戦争が始まった。1572年にはバルテルミー(バルトロマイ)の祝日にパリに集まったユグノーが虐殺される事件(聖バルテルミーの虐殺:St. Bartholomew's Day Massacre)が起こり、ユグノー4,000人が殺害された。殺戮の波は全国に広がり、死者は30,000人に及んだ。 ユグノー戦争は、フランス国内にとどまらず、ユグノーを支援するオランダとイングランド、カトリックを支援するスペインと教皇庁が介入する泥沼の戦いになった。アンリ3世は内戦を収束させるため、過激なカトリックの指導者を暗殺した。カトリック派は怒り、アンリ3世を暗殺した。 後継にユグノーのリーダー的存在だったアンリ4世が即位しブルボン朝を開いた。彼はカトリックに改宗してカトリック教徒の支持を取りつけた。また、プロテスタントの権利を認めるナントの勅令を公布し(1598年)、フランスの宗教戦争は終った。 |
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イギリス国教会 | カンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral) |
イギリスでは国王ヘンリー8世の離婚問題から宗教改革が始まった。ヘンリ8世はスペイン王妃キャサリン(Catalina)と結婚するが、王妃の侍女アン・ブーリン手を出した。彼女が身ごもると、その子を世継ぎにするためローマ教会にキャサリンとの離婚を申請した。しかし、カトリックでは離婚を認めておらず、またスペインとの関係悪化を懸念したローマ教皇は申請を却下した。怒ったヘンリーはローマ教会と決別し、強引にアンと結婚した。 教皇はヘンリーを破門したが、彼は「イングランドの統治者が教会の首長である」という首長令(国王至上法)を発布して対抗した(1534年)。こうしてカンタベリーとヨーク大司教を頂点とするイギリス国教会が成立した。 ユートピアの著者トマス・モアはこの改革に反対し処刑された。アンとの結婚を認めない者も次々と処刑された。 |
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反宗教改革 | ザビエル城(スペイン パンプローナ近郊) |
新教の拡大に危機感をもったローマ教会は改革に取り組んだ。これが反宗教改革である。1545年から1563年まで断続的に開催されたトリエント公会議(イタリアのトレント)では、贖宥状の販売禁止、教会の改革、異端の取り締まり強化などが決められた。当初はプロテスタントとの妥協点を見つける努力もされたが、次第にカトリックの教義を再確認し、プロテスタントを排斥する方向に傾いていった。そして、ローマ教会の影響が強いイタリアやスペインでは、宗教裁判や魔女狩りが頻繁に行われるようになった。 1534年、スペインのイグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエル(Javier)はイエズス会を結成し、宣教活動を開始した。イエズス会はポルトガル王の保護のもと、ポルトガル商人が出入りするアジアに進出した。 1549年、フランシスコ・ザビエルが布教のため鹿児島に来た。日本での布教は困難を極めた。2年後にインドのゴアに戻りそこで病に倒れた。48歳だった。1582年にはキリシタン大名たちがローマ教会に遣欧使節を派遣した。使節はスペインでフェリペ2世と、ローマではグレゴリオ暦を制定した教皇グレゴリウス13世に拝謁した。 |
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【参考資料】 世界の歴史 17 ヨーロッパ近世の開花 長谷川輝夫他 中央公論社 |