イギリスの歴史
ローマはブリタニアを放棄
古代
ストーンヘンジ(Stonehenge)

 イギリスの正式な呼び名は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)で、ブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズとアイルランド北部の北アイルランドの4つ国から成る国家ある。イングランド(アングル人の土地)は、アングロ・サクソン人が建てた国だが、スコットランド、ウェールズ、アイルランドはケルト人の国だった。

 ブリテン島には石器時代から人が住んでおり、BC2500年〜BC2000年頃にロンドンの西のソールズベリーにストーンヘンジ(Stonehenge)が作られた。この遺跡は、祭祀場あるいは天文台ではないかといわれている。BC700年頃、ケルト人(Celt)が鉄器や馬と車輪付きの馬車を持ってヨーロッパ大陸から渡ってきた。彼らはいくつかの部族に分かれて暮らし始めた。

 ガリア戦争中のBC55年と54年の2回にわたって、ローマのユリウス・カエサルがブリテン島に攻め込んだ。ローマに敵対するケルト部族を制圧するためである。

ローマの支配
ハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)

 AD43年、第4代ローマ皇帝クラウディウスは本格的にブリタニアに進出した。ローマ軍は、ブリトン人(ケルト人のこと)の拠点カムロドゥヌム(コルチェスター)を占領し、ブリタニアをローマの属州とした。その後各方面に軍を派遣し、ケルト部族を平定した。

 これに対してケルト人部族は反乱を起こすが武力で制圧された(ブーディカの乱)。ローマはブリタニア南部を支配したが、北部は制圧できず、絶えず蛮族が侵入した。そのため14代皇帝ハドリアヌスは122年から10年にわたってイギリスを横断する118kmのハドリアヌスの長城を作った。この長城はローマの撤退後もイングランドとスコットランドの国境として使われた。次の第15代皇帝アントニヌスは142年から144年にかけて、更に北方にアントニヌスの長城を建設した。

アングロサクソン人
ウェールズのコンウィ城

 4世紀になるとゲルマン民族の大移動が始り、ローマは東西に分裂した。ローマにはもはやブリタニアを統治する力はなく、407年に撤退した。ローマが去ったブリタニアでは、再びケルト人の部族が国家を作り始めた。しかし、北ドイツにいたゲルマン人の一派アングロサクソン人(Anglo-Saxons)が押し寄せ、7世紀頃にはアングロサクソン人の7つの王国(七王国)ができた。

 追われたブリトン人は、西部のウェールズや南西部の不毛地帯コーンウォールに移り住んだ。また、海に逃れたブリトン人は、小ブリタニア(フランスのブルターニュ地方)に移り住んだ。ブリテン島は、大ブリテン(Great Britain)と呼ばれるようになった。一方、スコットランドとアイルランドはゲルマン人に征服されず、ケルト系の国家が続いた。

 アングロサクソンとは、アングリアのサクソン人という意味で、アングリア(アングル族の国)は英語ではEnglandとなる。彼らは英語を話し、 英語を公用語とする白人の国(英、米、カナダなど)のことをアングロ・サクソンという。ちなみにEnglishのEngl は Angl(アングル)に由来している。また、北ドイツのサクソン人はザクセン人になった。

ノルマン人(Normanean)


ルーアン大聖堂にあるロロの墓

 9世紀になるとノルマン人の動きが活発となり、北フランスやイングランドなどヨーロッパ各地を侵略し始めた。ノルマン人はスカンディナヴィアやバルト海沿岸に住んでいた北方系ゲルマン人で、ヴァイキング(Viking)とも呼ばれる。

ノルマンディー公国
911年、北フランスを侵略したノルマン人の部族長ロロ(Rollo)は、西フランク王国のシャルル3世からノルマンディー地方を与えられて建国した。ロロはキリスト教に改宗し、名をロベール(Robert)と改めた。
イングランド
(デーン朝)
1016年、デンマーク王カヌート(クヌート)がイングランドを征服した。
シチリア王国
ノルマンディー公国のロベルト・ギスカルドが南イタリアを征服する。
ノヴゴロド公国
862年、リューリク(Rurik)はロシアに侵入し、ノヴゴロド公国を建国、彼の息子イーゴリキエフ大公国を建国した(882年)。
ノルマン・コンクエスト(Norman Conquest)

 

 

 

 

 

 

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ウィリアム1世が築城を命じたドーヴァー城

 1016年、イングランドを占領したデンマーク王カヌートは、イングランド、デンマーク、ノルウェーを支配する北海帝国を築いた。彼の死後、北海帝国は分裂、サクソン人でウェセックス王家のエドワードがイングランド王となった。このころ国王の戴冠式が行われるウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)が作られた。

 1066年、エドワードが後継者を決めないまま死去すると、王妃の兄ハロルドが国王に即位した。これに、ハロルドの弟トスティが反発、フランスのノルマンディー公ギョーム(Guillaume)も異議を唱えた。ギョームはエドワードの遠縁にあたり、エドワードから王位継承を約束されていたと主張した。

 トスティと彼を支援するノルウェイの軍勢は北のヨーク付近に上陸、ギョームは南のヘースティングズに上陸した。ハロルドはすぐさまヨークに出陣し、油断していたトスティとノルウェー軍を撃破した。続いて南に反転しギョームに猛攻を加えた。ギョームは苦戦に陥るが、深追いしてきたハロルドを包囲し討ち取った(ヘースティングスの戦い)。ギョームはイングランド王ウィリアム1世となりノルマン王朝を開いた。イングランドはノルマン人に支配されることになり、これをノルマン・コンクエストという。

バイユーのタペストリー
イングランドに侵攻するギョーム(バイユーのタペストリー)

 ギョームはイングランド王となったが、一方でフランス王の臣下であるノルマンディー公という微妙な立場にあった。彼は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して子飼いの功臣に与え、強大な王権を樹立した。ノルマン人は徐々にアングロ・サクソン人に同化し、文化も融合していった。

 ギョームの妻マティルダ(Matilda)は、イングランドを統一したサクソン人のアルフレッド大王の血を引いていた。彼女はノルマン・コンクエストの物語を、約70mのタペストリーに編み込んだ。このタペストリーはノルマンディー地方の都市バイユーにあるバイユー大聖堂に保管されていた。現在はフランスの国宝としてバイユータペストリー美術館に保管されている。

 このタペストリーには、ハロルドがイングランド王に即位した頃に、不吉な「火の星」が現れたことも描かれている。この天体は、1066年3月に現れたハレー彗星であったことが18世紀に判明した。

アンジュー帝国

ヘンリー2世が息を引き取ったシノン城(フランス)
映画「冬のライオン」の舞台となったお城

 ウィリアム1世が亡くなると、長男のロベールがノルマンディー公を、三男のウィリアムがイングランド王を相続した。ウィリアムが急死すると、弟のヘンリーがイングランド王を継いだ(ヘンリー1世)。その時ロベールは第1回十字軍に参加していて不在だった。ロベールが十字軍から戻ると争いが始まり、ヘンリーがロベールを破ってノルマンディー公領も手に入れた。

 ヘンリー亡くなると孫のアンジュー伯アンリがイングランド王ヘンリー2世として即位した(1154年)。この王朝をプランタジネット朝(Plantagenet)という。プランタジネットとはマメ科の植物エニシダのことで、アンジュー伯の紋章だった。

 彼はフランス王ルイ7世の元妻のアリエノール・ダキテーヌ(Alienor d'Aquitaine)と結婚し、彼女が持っていたフランスの広大な領土(アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュなど)も支配することになった。このイングランドとフランスの半分を合わせた領土をアンジュー帝国と呼んでいる。彼はスコットランド、ウェールズ、アイルランドにも侵攻して、精力的に領土を拡大しが、晩年は妻のアリエノールや4人の息子と不仲になり失意の最期を遂げた。彼を題材にした映画が「冬のライオン」である。

マグナカルタ
(大憲章)


マグナカルタの一部が保管されているソールズベリ大聖堂

 ヘンリー2世の次は息子のリチャード1世(獅子心王:Lion hearted)が即位した。彼は第3回十字軍に参加し、アラブの英雄サラディンと戦った。1192年、帰路に着いたリチャードは、一緒に十字軍に参加したフランスのフィリップ2世やオーストリア公レオポルト5世の陰謀によりオーストリアで捕らえられた。莫大な身代金を払って解放されたリチャードは、フランスに遠征しフィリップ2世と戦った。1199年、肩に受けた矢の傷が原因で41歳の生涯を終えた。リチャードは弟のジョンを後継者に指名した。

 ジョンは、フランスの領土をめぐってフィリップ2世と戦った。しかし、戦いにことごとく敗れ、フランスにあったイングランド領の大半を失った。このため彼は欠地王(John the Lackland)あるいは失地王と呼ばれた。1208年には、カンタベリー大司教の任命をめぐってローマ教皇と対立し破門された。情けないジョンに国民は反発し、王権を制限するマグナ・カルタを制定した(1215年)。ジョンの暴政に反抗した義賊の物語がロビン・フッド(Robin Hood)の冒険である。

【マグナ・カルタ(Magna Carta)】王の権力を法で縛り、現代の法の支配や自由主義の原型となった法律。

ウェールズ侵攻

プリンスオブウェールズの戴冠式が行われるカナーヴォン城

 ジョンの孫エドワード1世は、さまざまな改革を行って国内を安定させた。1277年、エドワードはウェールズに4次にわたって侵攻した。ウェールズがイングランドへの忠誠を拒否したためである。戦いは一方的にイングランドが勝利を収めた。

 エドワードはウェールズ人の反感を抑えるため、身重の王妃エリナーをウェールズのカーナーヴォン城(Caernarfon)に住まわせた。そして生まれてきた王子、つまりウェールズで生まれた王子に、ウェールズの君主であるプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号を与え、王子がウェールズの支配者であることを国民に納得させた。生まれてきた王子エドワード2世は、ウェールズの王であり、次のイングランド王を約束された人であった。

 こうしてイングランドの王位継承者がプリンス・オブ・ウェールズと名乗る習慣ができた。2022年までこの称号はイギリスのチャールズ皇太子が持っていた。夫人はプリンセス・オブ・ウェールズだが、妻のカミラはダイアナ妃に遠慮して名乗っていない。

スコットランド侵攻
エディンバラ城から見たエディンバラの町

 1290年、エドワード1世はスコットランドの王位継承紛争に介入し、スコットランドを侵略した。スコットランドは屈服し、スコットランド王が戴冠式の時に使う「スクーンの石」が奪われた。この石は700年後の1996年に返還され、現在はエディンバラ城に保管されている。

 イングランド支配に対して、ウィリアム・ウォレス(William Wallace)がゲリラ戦を展開するが鎮圧される。彼の生涯は映画「ブレイブハート(Braveheart):1995年アメリカ」に描かれている。

 1307年、エドワード1世が亡くなると、スコットランド王ロバート1世が立ち上がりイングランドに奪われた要衝を1つ1つ取り返していった。1320年、ロバート1世はローマ教皇によって正式にスコットランド王として承認された。1328年、エドワード3世と正式に和睦し、スコットランド独立戦争が終わった。

 イングランドとスコットランドはその後も争うが、1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王となって区切りがついた。

百年戦争(1339-1453)とばら戦争(1455-1485)

 1339年、フランスの王位継承をめぐって百年戦争が始まった。当初はイングランドが優勢だったが、ジャンヌダルクの登場で形勢は逆転した。フランス国内のイギリス領はカレーを残すのみとなり、1453年にイギリス軍は大陸から撤退した。この敗戦により国王ヘンリー6世は精神疾患に陥り、ヨーク公が摂政となって政治を行った。

 1年後にヘンリー6世が正気を取り戻すと、王を支援するランカスター家とそれに反対するヨーク家との王位争奪戦が始まった。この争いはランカスター家が赤ばら、ヨーク家が白ばらを紋章としていたのでばら戦争(Wars of the Roses:1455-1485年)と呼ばれる。戦いはヨーク家が優勢に進め、1461年にヨーク公エドワードがヘンリー6世を退位させた。彼はエドワード4世となってヨーク朝を始めた。

 ヨーク朝は裏切りやランカスター家の巻き返しがあって不安定だった。エドワード4世が急死すると12才の息子がエドワード5世として即位した。しかし彼の叔父の陰謀によりエドワード5世は弟とともにロンドン塔に幽閉された。2人は塔の中の王子たち(Princes in the Tower)と呼ばれ、その後殺害された。そして、この事件の首謀者である叔父がリチャード3世として即位した。国内は再び混乱し、各地に戦乱が起こった。

チューダー朝
ヘンリー7世

 1485年、フランスに亡命していたランカスター家のヘンリー・テューダー(Tudor)が、イングランドに上陸し、ボズワースの戦いでリチャード3世を破り、30年におよぶばら戦争は終結した。この戦争の様子はシェイクスピアの戯曲「リチャード3世の悲劇」に描かれている。

 チューダーはヨーク家のエリザベス(エドワード5世の姉)と結婚してヨーク家と和解、ヘンリー7世としてチューダー朝を開いた。この結婚に伴い、ヨーク家の白ばらとランカスター家の赤ばらを融合したテューダー・ローズ(Tudor rose)の紋ができた。テューダー・ローズはユニオン・ローズともいう。


Tudor rose

 チューダー朝は5代目エリザベス1世(1558年〜1603年)の時に最盛期を迎える。

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図説 イギリスの歴史  指 昭博 河出書房新社