混乱の時代 |
ローマはカルタゴやマケドニアを滅ぼし、地中海全域を支配した。ローマは豊かになったがそれは一部の支配層だけで、重装歩兵としてローマ軍を支えてきた中小農民は没落した。 生活に困った農民は土地を手放し、失業者となって大都市に流入した。農民の減少は兵士の減少につながり、ローマ軍の質や量は低下した。この状況に各地で反乱や対立が起き、ローマ共和政は崩壊の危機を迎えた。 |
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ミトリダテス戦争 |
同盟市戦争でイタリアが内乱状態になると、ポントスのミトリダテスが小アジアのビテュニアやベルガモンを蹂躙し、ギリシアに進出した。アテネやスパルタはローマを裏切ってミトリダテスについた。元老院はスッラをギリシアに派遣することを決めた。 マリウスはスッラのギリシア派遣に反対し、護民官と組んでスッラの権力を奪い取り自分が総司令官になった。ローマを追われたスッラは軍団を率いて進軍しローマを占領した。マリウスはアフリカに逃亡した。 再び執政官になったスッラは、ミトリダテス討伐のためギリシアに上陸してアテネを攻め、続いてカイロネイアでミトリダテスの大軍を打ち負かした(第一次ミトリダテス戦争 BC88〜85年)。ミトリダテスはその後もローマと2回も戦ったが敗れ、最後はボスポロスに逃れて自殺した(BC63年)。 |
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マリウスとスッラ |
アッピア街道にあるドゥルーズ門 |
スッラがギリシアに遠征している隙に、マリウスともう一人の執政官キンナがクーデターを起こしローマを占領した。二人は1000人以上のスッラ派のメンバーを粛清した。BC86年、マリウスとキンナは執政官に任命された。マリウスは7度目となる執政官の就任だったが、数日後に急死した。70才だった。2年後にはキンナも事故死した。 BC83年、ようやくスッラが動いた。彼はギリシアからイタリア半島南端のブリンディシに上陸し、アッピア街道をローマに向けて北上した。途中で反マリウス派のポンペウスやクラッススらが合流しスッラの軍勢は75,000に膨れ上がった。スッラは2年にわたる戦いでローマの正規軍12万を打ち破りローマに入城した。マリウスやキンナにつながる膨大な数の元老院議員や騎士が粛清された。この時、ローマの将軍のセルトリウスはスペインに逃げ、18歳のカエサルはビチュニアに追い出された。 スッラは強大な権限を持つ独裁官に就任し、さまざまな改革を行った。BC79年に政界を引退、翌年にあっけなく死んでしまった。60才だった。 |
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ポンペイウス (Pompeius) |
古代ローマ遺跡フォロ・ロマーノ |
スッラの死後権力を握ったポンペイウスは、スペインで起きたセルトリウスの反乱を4年がかりで鎮圧した。彼がバスク地方に築いた砦が、牛追い祭り(サンフェルミン祭り)で有名なパンプローナ(Pamplona)である。 ローマに戻ったポンペイウスはスパルタクスの乱の残党を掃討し、BC70年にはクラッススとともに執政官になった。BC67年に地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐、翌年には小アジアに遠征してポントス王国を滅ぼした。さらにシリアに進軍してセレコウス朝シリアを滅ぼし、ユダヤ(ハスモン朝)へ軍を進めてエルサレムを陥落させた。この一連の遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からシリア、パレスティナまで広がった。 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。元老院は彼の人気の高さに警戒心を抱き始めた。 |
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三頭政治、ガリア戦争 | カエサルに武器を渡す馬上のウェルキンゲトリクス(vercingetorix) |
スッラが亡くなるとカエサルはローマに戻った。彼はそのおおらかな性格から民衆に絶大な人気があった。BC60年に執政官に選出され、ポンペイウスやクラッススと三頭政治を始めた。彼らは担当地域を、カエサルはガリア(フランス)、クラッススはシリア、ポンペイウスはスペインと決めた。 BC58年、カエサルはガリアに遠征し、ガリア人の部族を次々と平定していった。戦いが始まって7年目、英雄ウェルキンゲトリクスが登場し、ガリア連合を組織して反撃を開始した。ガリア軍は焦土作戦とゲリラ戦でローマ軍の兵站を破壊した。ローマ軍は苦戦しながら反撃に転じ、ウェルキンゲトリクスをアレシアの町に追い詰めた。町は高さ4メートルの土塁で包囲された。1ヵ月後、ガリアの救援部隊が駆けつけローマ軍を逆包囲し、ウェルキンゲトリクスも中から反撃した(アレシアの戦い)。 しかし、ローマ軍の壁は厚く強行突破は失敗し、力尽きたウェルキンゲトリクスは降伏した。彼はローマに6年間投獄され、カエサルの凱旋式で処刑された。36才だった。ガリアはローマの属州となり、カエサルはこの戦争の記録をガリア戦記に書き残した。 |
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ユリウス・カエサル
(Julius Caesar) 英語読み: ジュリアス・シーザー |
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シリア方面を担当したクラッススは、パルティアに遠征するがカルラエの戦いで息子とともに戦死した(BC53年)。クラッススの死により三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まった。BC48年、ポンペイウスと元老院は、カエサルのガリア総督の地位を剥奪した。そして、ローマへ帰還するよう命令した。 カエサルは悩んだ。一人で帰れば命が危ない。軍を連れていけば反逆者となる。そして決断した。「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と叫び、軍を率いてルビコン川を渡った。軍を連れてローマに入る者は反逆者とみなされた。カエサルはもう後戻りできない道を歩み始めたのである。 不意をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れた。ローマを制圧したカエサルはポンペイウスを追撃した。両者は ギリシアのファルサルス(Pharsalus)でぶつかった。 歴戦のカエサル軍は士気が高く、数で勝るポンペイウス軍を圧倒した。ポンペイウスは敗れエジプトに逃げた。 【カエサル】ローマ皇帝の称号になる。ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリなど皇帝を示す言葉になった。 |
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クレオパトラの死(フィラデルフィア美術館) 【ユリウス暦】エジプトの暦をもとに作られた暦 |
カエサルは終身独裁官に就き、元老院を無視して事実上の帝政を始めた。元老院は反発し暗殺の謀議を始めた。 BC44年3月15日、いつもより遅れて元老院に現れたカエサルを、カシウスやブルートゥスら14人の暗殺者が襲った。彼は「ブルートゥス、お前もか・・・」と叫び絶命した。55歳だった。ブルートゥスはカエサルの愛人セルヴィリアの息子だった。 カエサルの死後、部下のアントニウスが権力を握ったが、カエサルの遺言状によりオクタウィアヌス(Octavianus)が後継者になった。 シェイクスピアの戯曲ジュリアスシーザーの中の名言 |
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アウグストゥス Augustus |
アウグストゥス像:サラゴサ(スペイン) |
オクタウィアヌスはBC63年にローマで生まれた。父は元老院議員で彼が4歳の時に死亡、母はカエサルの姪のアティアである。カエサルが暗殺された時、彼はまだ18歳だった。国外にいた彼は急遽ローマに戻り、アントニウス、レピドゥスと第2回三頭政治を始めた。彼らはカエサル暗殺にかかわった者たちを粛清し、首謀者のブルトゥスやカッシウスをギリシアで討ち果たした(フィリッピの戦い)。 彼らは支配地域を、オクタウィアヌスはローマの西半分、アントニウスは東半分、レピドゥスは北アフリカと定めた。やがてレピドゥスは失脚し、オクタヴィアヌスとアントニウスの対立が始まった。オクタウィアヌスは関係を修復のため、姉のオクタウィアをアントニウスに嫁がせた。しかし、アントニウスは、タルソス(トルコ)で知り合ったクレオパトラに夢中になりエジプトで暮らし始めた。ローマ市民はエジプトに魂を奪われたアントニウスに見切りをつけた。アントニウスは名誉挽回のためパルティアに遠征したが惨敗、やがてオクタウィアとも離婚した。オクタウィアヌスは、アントニウス討伐を決断した。 |
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アクティウムの海戦 | アクティウムの海戦が行われた海 (ギリシアのプレヴェザの要塞から撮影) |
BC31年、アクティウム沖で両軍合わせて500隻以上の艦船による決戦が行われた。数に勝るアントニウス艦隊は有利に戦いを進めたが、大型船が主体で小回りが利かず徐々に形勢は逆転した。これを見てクレオパトラ艦隊が戦線を離脱し、アントニウスもその後を追った。指揮官不在となったアントニウス艦隊は総崩れとなり降伏した(アクティウムの海戦)。 アントニウスとクレオパトラはエジプトに逃げ帰った。オクタヴィアヌスは追撃した。アントニウスは自害、数日後クレオパトラも自害した。39才だった。二人は同じ墓に葬られた。カエサルとの間に産まれたカエサリオンも殺され、プトレマイオス朝は滅んだ。
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五賢帝時代へ | ティトゥスの凱旋門 (ローマ) |
アウグストゥスの次に即位したティベリウス帝は皇帝権を磐石なものとした。彼の時代にエルサレムでキリストの処刑が行われた。続いてカリグラ、クラウディウス、ネロが皇帝についた。クラウディウスは本格的にイギリスに侵攻し、ブーディカの乱などのケルト人の反乱を制圧した。第5代皇帝ネロは政治や芸術面では優れていたが、近親者やキリスト教徒を迫害したため暴君といわれている。 ネロは元老院によって自殺に追い込まれ、アウグストゥスの血筋は途絶えた。その後、血縁関係のない皇帝が乱立し国内は乱れたが、69年に60才のヴェスパシアヌスが皇帝に就いて帝国は再び発展した。彼は息子のティトゥスをエルサレムに派遣してユダヤ人の反乱を鎮圧した。これを記念してティトゥスの凱旋門が建てられた。 ヴェスパシアヌスの次に名君ティトゥス(Titus)が即位した。しかし、ローマの大火やヴェスヴィオス火山の噴火(ポンペイの遺跡)、疫病の流行などの災害が続いた。彼は被災した人々の救援を惜しまなかった。続いてティトゥスの弟ドミティアヌスが即位したが残虐な政治を行ったため、元老院に暗殺された。そして、ローマは最盛期の五賢帝時代を迎える。 |
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【参考資料】 ローマ人の物語 塩野七生 新潮文庫 |