五賢帝時代 (パクス・ロマーナ:Pax Romana) |
ドミティアヌス帝が暗殺されると、人類が最も幸福だったといわれる五賢帝時代が始った。この時代は経済活動が盛んで、アジアの香辛料や絹が運ばれてきた。また、ロンドン、パリ、ウィーンなど多くの都市が建設された。
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ハドリアヌスの長城とローマ軍駐屯地跡(イギリス) |
マルクス・アウレリウスの息子コンモドゥス(Commodus)は、快楽と欲望にふけり国は乱れた。彼やその後の数人の皇帝は、暗殺や敗北死という惨めな最後を遂げた。193年にセウェルス帝が即位した。彼は東方に積極的に進出し、オスロエネ王国を滅ぼしパルティアの首都クテシフォンを占領した。 その息子カラカラ帝(Caracalla)は、カラカラ浴場を建設したり、全ての属州民にローマ市民権を与えた(アントニヌス勅令)。しかし彼はローマ史上に残る暴君の一人で、パルティア遠征中に部下に殺害された その後の50年間は、各地の軍隊が勝手に皇帝を擁立して争う軍人皇帝の時代といわれ、26人の皇帝が乱立した。元老院の権威は失墜し、北方のゲルマン人や東方の ササン朝ペルシアの進入が激しくなった。260年にはエデッサの戦いでウァレリアヌス帝がペルシアの捕虜になり、そこで生涯を終える事態まで発生した。 |
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サン・マルコ寺院にある4人の王(ヴェネツィア) 1204年にコンスタンティノポリスから略奪したもの |
284年に即位したディオクレティアヌス帝は、国内の混乱を収拾するため皇帝に権力を集中し(専制君主制)、キリスト教を激しく弾圧した。また、広大な帝国を円滑に統治するため、マクシミアヌスを西方正帝に取り立て、自身は東方を治める東方正帝になった。さらにそれぞれの正帝の補佐役として副帝を任命し(293年)、4人の皇帝が帝国を分割統治した(テトラルキア)。
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キリスト教公認 |
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コンスタンティヌスは313年にミラノ勅令を発布しキリスト教を公認した。自らもキリスト教を信仰し、初のキリスト教徒の皇帝となった。 再統一されたローマは相変わらず蛮族の侵入に悩まされていた。378年、ローマ領内に侵入してきた西ゴート族がトルコのエデルネで反乱を起こした(アドリアノープルの戦い)。ローマ軍は惨敗し、皇帝ウァレンスは戦死した。 これにより、トラキア地方(バルカン半島東部)はゴート族に占領された。ウァレンスの次のテオドシウス帝はニカイア宗教会議で正統と認められたアタナシウス派のキリスト教をローマの国教にした(392年)。この勅令によってキリスト教以外の宗教は禁止され、女神ウェスタに仕えて聖なる火を守る女祭司制度やゼウスに捧げる古代オリンピックが廃止された。 |
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西ローマ帝国滅亡 | テオドリック大王の墓(イタリアのラヴェンナ) |
395年にテオドシウスが亡くなると長男が東を、次男が西を統治しローマは東西に分裂した。西ローマ帝国はゲルマン民族の侵略に悩まされ、首都をローマからミラノ、そしてラヴェンナに遷した(402年)。皇帝がいなくなったローマはアラリック率いる西ゴート族に蹂躙され(410年)、455年にはヴァンダル王国のガイセリックに掠奪された。 西ローマ帝国は内乱によって衰え、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにとどめを刺された。476年、彼は最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスを退位させ、皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝に返上した(西ローマ帝国滅亡)。東ローマ皇帝はオドアケルにイタリアの統治を任せたが、その後対立し、東ゴート族のテオドリック大王に命じて討伐した(493年)。テオドリックはイタリア王を名乗ることが許され、東ゴート王国が誕生した。 |
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【参考資料】
ローマ人の物語 塩野七生 新潮文庫 |