イベリア半島 |
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イベリア半島に最初にやってきたのは北アフリカを征服したカルタゴ(フェニキア人)で、BC12世紀頃にカディスやマラガに殖民都市を建設した。同じ頃、ケルト人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進入し、ギリシャ人もフランスから地中海沿いに南下してきた。 カルタゴとギリシアはイベリア半島の覇権をめぐって対立した。BC540年のコルシカ島のアラリア(現アレリア)で両者はぶつかり、カルタゴが勝利してイベリア半島の貿易を独占した。BC265年、イタリア半島を統一したローマは、シチリアをめぐってカルタゴと戦った(第1次ポエニ戦争)。この戦争でカルタゴは敗れ、シチリアやサルディニア島を失った。地中海から締め出されたカルタゴはイベリア半島に本格的に進出し、カルタヘナやバルセロナなどの町を建設した。 カルタゴとローマの戦いはその後も続き、BC218年に名将ハンニバル率いるカルタゴ軍は、カルタヘナを出発してローマに進軍した(第2次ポエニ戦争)。この戦いは16年続き、イベリア半島を攻略したローマ軍が勝利した。以後ローマは600年にわたってイベリア半島を支配した。 |
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西ゴート王国 | 西ゴート王国の首都トレド |
4世紀になるとローマの力は衰え、ゲルマン民族の大移動が始まった。バルト海のリトアニア付近に住んでいたゲルマン民族の一派西ゴート族は、375年にローマ領内に進入した。当初、ローマの傭兵に雇われていた西ゴート族は次第に力をつけ、410年にはアラリックに率いられてローマ市を制圧した。アラリックの死後、彼らはガリアに移住し、419年にトロサ(トゥールズ)を首都とする西ゴート王国を建設した。 西ゴート王国は、ドイツやフランスに勢力を拡大してきたフランク族と対立した。507年のヴィエの戦い(Battle of Vouille)で西ゴートはフランクに敗れ、フランスからイベリア半島に追い払われた。西ゴート王国はスペインのトレドに逃れた。 7世紀になると北アフリカを制圧したイスラム勢力の活動が活発になり、地中海貿易に頼る西ゴート王国は衰退していった。また、王位をめぐる内紛も深刻で、チンダスビント家のロドリーゴが強引に国王に就任すると、対立するバンパ家は反発、アフリカのイスラム教国に支援を求めた。 |
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イスラムのイベリア半島進出
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イスラム軍を率いてジブラルタルに上陸したターリク・イブン・ズィヤードは「船を燃やせ。君たちに戻る道はない。未来は前にある。」と兵士たちを鼓舞した。 |
シリアのイスラム帝国(ウマイヤ朝)は東ローマ帝国からエジプトを奪還し、西方のマグリブ(日が没するところ:チュニジア、アルシェリア、モロヅコなどの北アフリカ)に向かって進撃を開始した。698年にカルタゴを占領、707年にはモロッコを制圧した。 711年、ウマイヤ朝のアフリカ総督ムーサーは、分裂状態にある西ゴート王国の攻略を決断し、部下のターリクにイベリア半島進出を命じた。ターリクは7000人の部隊を率いてジブラルタルに上陸、迎え撃つ西ゴート軍をグアダレーテ川付近で撃破した。この戦いで西ゴート王ロドリーゴは戦死し、勢いに乗ったイスラム軍は、トレドやコルドバ、ムルシアを攻略した。 【ジブラルタル】ジブラルタル海峡の入口にある岩山は、対岸のモロッコの山とともに「ヘラクレスの柱」と呼ばれた。ターリクがイベリア半島に侵入すると、この岩山はターリクの山(ジャバル・アル・ターリク)と呼ばれ、それがジブラルタルになった。ジブラルタルはスペイン継承戦争後イギリス領となり(1713年)、今日に至っている。 |
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アル・アンダルス |
わずか数年で、カンタブリア山脈とピレネー山脈を除くイベリア半島の大部分がイスラムの支配下となり、アル・アンダルス(al-Andalus)と呼ばれるウマイア朝の属州が生まれた。首都はコルドバにおかれた。勢いに乗るイスラム軍はピレネー山脈を越えてフランスに進出した。フランス南部を制圧し、ツールを目指して北上するイスラム軍をフランク王国のカール・マルテルが迎え撃った(732年、トゥール・ポワティエ間の戦い)。この戦いでイスラム軍は敗れ、破竹の進軍は止まった。 ダマスカスのウマイヤ朝はアミールと呼ばれる総督をアル・アンダルスに派遣してイベリア半島を統治した。しかし、征服者のイスラム教徒は一枚岩ではなく、アラブ人とベルベル人の対立やアラブ人とシリア人の確執などがあった。そのため、アル・アンダルスの政情は不安定で、716〜741年の間に15人もの総督が交代した。 アル・アンダルスの住民は、ほとんどがキリスト教徒だった。一部の住民はイスラム教に改宗したが、大半の住民は人頭税(ジズヤ)を払ってキリスト教を信仰していた。 |
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後ウマイヤ朝 年表に戻る |
コルドバのメスキータ |
750年、シリアで政変が起こり、ウマイヤ朝がアッバース朝に倒された。ウマイヤ朝の王族はことごとく殺されたが、ただ一人生き残ったアブド・アッラフマーン1世はモロッコ経由でイベリア半島に逃れた。彼は756年にコルドバでアミールを宣言し、ウマイヤ朝を再興した。これが後ウマイヤ朝である。後ウマイヤ朝は徐々に力をつけ、778年にはフランク王カール・マルテルの進入を撃退した。この戦いはローランの歌のモデルになった。 929年、第8代アブド・アッラフマーン3世(Abd ar-Rahman)は、自らカリフを名乗りイスラム世界の最高指導者であることを宣言した。彼の時代が王朝の最盛期で、北部のカスティリャやアラゴンなどのキリスト教国を圧倒し、エジプトのファテーィマ朝と北アフリカの領有権を争うなど活発な対外活動を行った。 この頃、東方から多くの文化人がイベリア半島に移住し、ヨーロッパにサラセン文化を伝えた。首都コルドバは、バグダッドやカイロとともに文化の中心地で、メスキータと呼ばれる大モスクが建設された。コルドバ゙で開花したイスラム文化は、後にラテン語に翻訳されてイタリアに伝わり、ルネッサンスのいしずえとなった。 栄華をきわめた後ウマイヤ朝も権力闘争によって衰退し、1031年に最後のカリフが廃位されて滅亡した。アル・アンダルスは、セビリア、トレド、サラゴサ、バレンシアなど約30のイスラム小王国に分裂した。 |
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レコンキスタの開始 | コバドンガのペラーヨ像 |
西ゴート王国が滅亡してもその家臣ペラーヨ(Pelayo)はカンタブリア山脈に逃れて抵抗を続けた。彼はアストゥリアス王国を建国してレコンキスタを開始した。722年には押し寄せてきたイスラム軍をコバドンガの戦い(Covadonga)で破り、イスラム軍に対して初めての勝利をつかんだ。 3代目のアルフォンソ2世(760〜842年)の時に、星に導かれた羊飼いがキリストの弟子ヤコブの墓を発見した。そこがサンティアゴ・デ・コンポステーラでローマ、エルサレムと並ぶ巡礼地となった。レコンキスタの機運は一気に高まり、首都をオビエド(Oviedo)に移して南のドゥエロ川流域に進出していった。
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小王国乱立 |
後ウマイヤ朝の滅亡後、小王国に分裂したイスラム勢力は、絶えず紛争を繰り返した。そのためイスラムの結束は弱まり、キリスト教国に対する軍事的優位も失われていった。1085年、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はトレドを攻め落とした。トレドの陥落は、イスラム小王国に深刻な打撃を与え、彼らは北アフリカのムラービト朝に援助を求めた。 1086年、ムラービト王ユースフ(Yusuf:ヨセフのアラビア語読み)はイベリア半島に渡り、サグラハス(サラカ)の戦い(Sagrajas/Zalaca)でアルフォンソ6世(AlfonsoY)を破った。そして、分裂した小王国を征服してアル・アンダルスを統一した。 |
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エル・シッド
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イスラム王ユースフに敢然と立ち向かったのがカスティーリャ王アルフォンソ6世の臣下エル・シッド(El Cid)である。彼はアルフォンソに嫌われて追放されたが、彼を慕う多くの兵士とともにバレンシアを攻めイスラムから奪還した(1094年)。しかし、5年後にエル・シッドが他界するとバレンシアは再びイスラム軍に占領された。 エル・シッドとは、アラビア語の「わが主」という意味で、ムーア人が彼の勇敢さを讃えて付けた名前である。彼の本名はロドリーゴ・ディアスという。 【ムーア人(moor)】北アフリカのイスラム教徒のことでベルベル人を指す。スペインではモーロ人と呼ぶ。大航海時代にフィリピンでイスラム教徒と出会ったスペイン人は、彼らをモロと呼んだ。 |
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ムラービト朝からムワッヒド朝へ | アルファフェリア宮殿(サラゴサ) |
ユースフが亡くなるとムラービト朝は衰退し、1118年にはアラゴン王国にサラゴサを奪われた。モロッコ国内ではイスラム改革運動(ムワッヒド運動)が始まり、ムラービト朝に代わってムワッヒド朝が興った(1147年)。この混乱期にアル・アンダルスは再びグラナダ、マラガ、バレンシアなどの小王国に分立した。キリスト教軍は勢いを取り戻し攻勢を強めた。 これに対して、北アフリカを統一したムワッヒド朝がイベリア半島に進出し、反撃を開始した。第3代アミールヤアクーブ・マンスールは、カスティーリャのアルフォンソ8世を破り、アル・アンダルスの大部分を手中におさめた(1195年)。またもや、レコンキスタは頓挫した。 13世紀になるとムワッヒド朝は衰え、カスティーリャは反撃に出た。1212年、カスティリャ、アラゴン、ナバラ、ポルトガル、宗教騎士団からなるキリスト教連合軍はトレドに集結した。そして、ラス・ナバス・デ・トロサ(Las Navas de Tolosa)の戦いでイスラム軍に壊滅的な打撃を与えた。 ムワッヒド王は命からがらモロッコに逃れ、以後イベリア半島のイスラム勢力は後退の一途をたどることになった。 |
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レコンキスタの進展とポルトガル |
ムワッヒド朝がイベリア半島から撤退すると、アル・アンダルスは再び権力の空白地帯となり、ムルシア、バレンシア、グラナダなどのイスラム王国が乱立した。これらの王国は、キリスト教軍に個別に撃破されていった。レコンキスタは最終局面に入った。 1236年にコルドバが、1238年にはバレンシアが陥落、1244年にムルシア、1248年にセビリャが攻略された。カスティーリャ・レオン王国から独立したポルトガルは、1147年にリスボンを奪還し、1249年までに国内のイスラム勢力を全て追い払った。 イベリア半島のイスラム勢力は、グラナダのナスル朝を残すのみとなった。ナスル朝はカスティーリャ王国に臣従する形で国を存続させていた。 |
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ナスル朝 | グラナダを去るムハンマド11世 |
14世紀半ばにヨーロッパ全域を襲ったペストは、カスティーリャにも大きな打撃を与えた。また、カスティーリャとアラゴンの対立も始まり、レコンキスタは後退した。その隙にナスル朝は大いに繁栄し、この頃にアルハンブラ宮殿がイスラム最高傑作の宮殿に整備された。 15世紀に入るとレコンキスタが再開された。1415年にポルトガルがセウタを占領、1462年にはカスティーリャがジブラルタルを占領した。キリスト教徒がジブラルタル海峡を抑えたため、ナスル朝は北アフリカのイスラム勢力と接触することができず孤立した。 1479年、アラゴンの皇太子フェルナンドとカスティリャの王女イサベル(Isabel)の結婚によりスペインは統一され、スペイン王国(Espana:エスパーニャ)が誕生した。二人は平等の立場(タントモンタ:Tanto Monta)でスペインを統治し、後に教皇からカトリック両王の称号を与えられた。 カトリック両王は1万の軍勢でグラナダを包囲した。1年にわたる篭城戦のすえ、力尽きたムハンマド11世はグラナダを無血開城した(1492年)。800年にわたってイベリア半島を支配したイスラム勢力はモロッコに去り、レコンキスタは完了した。イサベルはグラナダが陥落するまでは下着を替えないと誓った。下着は汚れて茶色に変色し、その色がイサベル色といわれるようになった。 この頃、悪名高い異端審問が開始され、多くのユダヤ人や非キリスト教徒が処刑された。また、ユダヤ人追放令が出され、カトリックに改宗しないユダヤ人はイベリア半島から追放された。1492年8月、女王に許可をもらったコロンブスがアメリカに向けて出航し、大航海時代の幕が開いた。 |
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【参考資料】
絵で見る十字軍物語 塩野七海 新潮社 |