フランク王国
メロヴィング朝
(Merowinger)

 ローマ帝国が出現する前のヨーロッパはケルト人の世界だった。ローマ人は、フランス方面に定住したケルト人をガリア人と呼び、彼らが住む地域をガリアと呼んだ。BC58年にローマのカエサルがガリアに侵攻し、7年におよぶ戦いの末に制圧した。ガリアはローマの属州になった。ローマ帝国が弱体化すると、ガリアにもゲルマン人が流入してきた。その中でフランク族が力をつけ、481年にクローヴィス(Clovis)がフランク王国を建国した。この王朝は、クローヴィスの祖父の名前(メロヴィクス)をとってメロヴィング朝と呼ばれた。

 西ローマ帝国の滅亡後も、ローマの司令官シャグリウス(Syagrius)は、ガリアの中心部を支配していた。クローヴィスはシャグリウスに戦いを挑み、ソワソンの戦いで打ち破った(486年)。さらにガリアで最大の勢力だった西ゴート族ヴイエの戦いで破り、スペインに追い出した。フランク王国は全ガリアを統一した。

 496年、クローヴィスは王妃クロティルダ(Clotilda)の勧めでランス大司教サン・レミから洗礼を受け、キリスト教に改宗した。これ以降、歴代のフランス王はランスで戴冠式を行うようになった。他のゲルマン諸族は異端のアリウス派だったが、フランク族は正統のアタナシウス派を信仰していたため、ローマ系住民やカトリック教会と良好な関係を保つことができた。



クローヴィスの洗礼
(ランスのサン・レミ・バジリカ聖堂)

宮宰

 クローヴィスの死後、王国は4人の子によって分割された。その後、統一と分裂を繰り返しながら6世紀後半には、アウストラシアネウストリアブルグンドの3つの王国に分立した。650年にカロリング家のピピン1世(大ピピン:Pippin)がアウストラシアの宮宰になった。宮宰とは王家の執事のような役割だったが、次第に行政や裁判を行うようになり権力を強めていった。

 その子のピピン2世(中ピピン)が宮宰になると、アウストラシアの事実上の統治者になり、宮宰はカロリング家が世襲するようになった。687年のテルトリーの戦いでネウストリアを破ると、アウストラシア、ネウストリア、ブルグントの3王国の宮宰になり、全フランク族を統治した。ピピン2世の次は庶子のカール・マルテル(Charles Martel)が王国を支配した。

 711年、アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム軍西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えて南フランスに進出した。720年にナルボンヌを占領、ここを基地としてアキテーヌに進軍した。アキテーヌを支配していたウード(Eudes)は、トゥールーズの戦いでイスラム軍を破ったが、ボルドーを掠奪されカール・マルテルに援軍を求めた。


フランク王国

トゥール・ポワティエ間の戦い

 

 

 

 

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 イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエのイレーヌ教会を略奪し、トゥールに進軍してきた。カール・マルテルはこれを迎え撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワチエ間の戦いで、イスラムのヨーロッパ侵攻を食い止めた(732年)。
聖イレーヌ教会(ポアチエ)
聖マルチン聖堂(トゥール)



トゥール・ポワティエ間の戦い
カロリング朝

 戦いに敗れたとはいえイスラム軍は依然として南フランスを占領していた。カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは759年だった。これ以降イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 カール・マルテルの死後、息子のピピン3世(小ピピン)が宮宰になり、メロヴィング朝の最後の皇帝を廃して王位についた。こうしてカロリング朝(Karolinger)が始まった(751年)。ローマ教皇ザカリアスはこのクーデターを承認した。

 北イタリアではゲルマン人のランゴバルド王国がラヴェンナを攻撃しローマに迫ってきた。ピピン3世はローマ教皇の救援要請を受けてイタリアに出兵し、ランゴバルド王国を討伐した。そしてラヴェンナとその周辺をローマ教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となった。


ナルボンヌの大聖堂(フランス)
ローマ皇帝の戴冠

 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につくと積極的に外征を行い領土を広げた。まず、イタリアのランゴバルド王国を、続いてザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars)を征服し西ヨーロッパを統一した。ピレネー山脈を越えて後ウマイア朝も攻撃したがこれは失敗した。この事件を題材とした物語がローランの歌である。そして、イスラムの再侵入に備え、フランスとスペインの間にスペイン辺境領を設置した。

 カールは国を多くの州に分け、各州に(はく)をおいて統治させた。伯は貴族の称号になった。また、首都アーヘンに人材を集め、教育や文化を奨励した(宮廷学校)。この学校は各地の修道院に広がり、ラテン語の教育が盛んに行われた。

 フランク王国はビザンツ王国にならぶ強国となり、800年12月25日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた(カールの戴冠)。ここに西ローマ帝国が復活し、民族の大移動以来混乱していた西ヨーロッパに平和が訪れた。ローマ教会はビザンツ皇帝から独立し、やがてギリシア正教会ローマ・カトリック教会に分裂することになる(1054年)。


城塞都市カルカソンヌ(フランス)
フランク王国の分裂

 フランク王国は王が死ぬたびに相続争いが起き、843年のヴェルダン条約で西、中部、東の3王国に三分割された。中部フランクは長男のロタールが国王となったが、彼の死後王国は東・西フランク王国に併合された(メルセン条約:870年)。

 異民族の侵入は激しく、東からはマジャール人、北からはスカンディナヴィアに住むヴァイキング(ノルマン人:北の人)、南からはアラブ人(ムスリム)が王国を荒らしまくった。

 ノルマン人の侵入に手を焼いた西フランク王は、ノルマン人の部族長ロロをキリスト教に改宗させ、新たな侵入者を防ぐためにノルマンディー地方に定住することを認めた。こうしてノルマンディー公国ができた(911年)。異民族の侵入で辺境防衛を担った貴族は勢力を伸ばし、王権は弱まった。

 やがて、東フランクでは王を選挙で選ぶようになり、10世紀に王位に就いたザクセン家のオットー1世が戴冠して神聖ローマ帝国皇帝となった(962年)。西フランクでもパリ伯ユーグ・カペーが王に選出されカペー朝フランス王国が始まった(987年)。イタリアでは各地の諸侯や東フランク王が、ローマ皇帝とみなされるイタリア王位を求めて争い国は乱れた。


フランク王国の分裂
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カペー朝 

【参考資料】