ルネサンス(Renaissance) |
ルネサンスはギリシアやローマなどの古典文化を復興しようとする文化運動で、14世紀にイタリアで始まり西欧各国に広まった。この言葉は、復活を意味するフランス語である。 830年、アッバース朝の首都バグダードに知恵の館が建設され、古代ギリシアの文献をアラビア語に翻訳する作業が行われた。12〜13世紀頃、スペインのトレドに翻訳学校が設立され、アラビア語のギリシア文献を今度はラテン語に翻訳する作業が行われた。ギリシアの文化遺産は、ローマから西欧に伝わったのではなく、イスラム世界を経由して西欧に広がっていったのである。1453年にコンスタンティノープルが陥落すると、ビザンツ帝国から優れた学者や文献がイタリア半島に流れ込み、古典文化の研究が進んだ。 ルネサンスは、フィレンツェ、ミラノ、フェッラーラ、ヴェネツィアなど北イタリアの都市で開花した。これらの都市は地中海貿易で繁栄し、特にフィレンツェは毛織物業と銀行業によって大きな経済力を持っていた。芸術家たちを育てたのは、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フェッラーラのエステ家などである。 |
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文学では神曲(ダンテ)、デカメロン(ボッカチオ)、カンタベリー物語(チョーサー))、君主論(マキャヴェリ)、愚神礼賛(エラスムス)、ユートピア (トマス・モア)、ドン・キホーテ(セルバンテス)などが有名である。 建築は古代ローマの遺跡を研究することから始まり、フィレンツェのブルネレスキの捨子保育院やフィレンツェ大聖堂、アルベルティのサンタ・マリア・ノヴェラ教会、ローマのサンピエトロ大聖堂などが建設された。 美術では、フラ・アンジェリコの受胎告知やボッティチェッリのプリマヴェーラなどがルネサンス初期の作品で、その後レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが活躍し美術の黄金時代を迎えた。 科学技術の分野では、ヨーロッパの発展に大きな影響をおよぼす3大発明がなされた。 |
サンタ・マリア・ノヴェラ教会(フィレンツェ) |
それでも地球は動く |
ルネサンスでは自分の目で万物を観察しようとする風潮が芽生え、中世の間おとろえていた科学精神を呼び覚ました。ポーランドのコペルニクス(1473〜1543)は、イタリア留学中に古代の太陽中心説(地動説)を知った。帰国してからも天文観測を続け地動説を確信したが、教会との争いを恐れて公表しなかった。コペルニクスの説を主張したブルーノ(Bruno:1548〜1600)は、自説を曲げなかったため宗教裁判で火刑となった。 ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)は地動説の正しさを証明したが、宗教裁判にかけられ地動説を放棄させられた。この時ガリレイは「それでも地球は動く(And yet it moves.)」とつぶやいた。 その後楕円軌道を提唱したケプラー(1571〜1630)や万有引力を発見したニュートン(1642〜1727)らによって地動説が完成した。 |
裁かれるガリレオ |
ルネサンスの終焉 |
ルネサンス時代のイタリアは多くの都市共和国、諸侯国、教皇領に分裂して抗争が絶えなかった。そのため、フランスの(ヴァロワ家)やスペインのハプスブルク家の介入をさそい、イタリア戦争と呼ばれる覇権争いが続いた(1494年〜1559年)。また、宗教改革によって教皇の権威は弱まり、ヨーロッパに戦火が広がっていった。イタリアの都市国家は弱体化しイタリアルネサンスは終わりを告げた。 ルネサンス期は明るい時代ではなく、ペストの流行や戦乱が続く波乱の時代だった。文化を享受していたのは宮廷や教皇庁など一部の人々だけであった。 【ローマ教皇領】756年にフランク王国のピピンがランゴバルド王国から奪ったラヴェンナ地方を寄進した(ピピンの寄進)ことに始まる。その後も寄進が続き、ローマを中心とする中部イタリアに広大な教皇領ができた。 |
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18世紀末になると分裂していたイタリアをナポレオンが制圧した。ナポレオンが没落すると支配者はオーストリアになった(ウィーン体制)。この支配に反発してイタリア北西部とサルデーニャ島を領有していたサルデーニャ王国(Sardegna)がイタリア独立戦争を開始した。 1859年、サルデーニャ王国の首相カヴールは、フランスのナポレオン3世の援助を得て対オーストリア戦争を開始し、ベネチアを除く北イタリアを制圧した。翌年にはローマ以外の教皇領を併合して中部イタリアまで領域を拡大した。 一方、ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi)はシチリアの反乱に乗じて両シチリア王国を占領した。そしてそれをサルデーニャ王国に献上したことでイタリアは統一され、イタリア王国ができた。国王にはサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele 2)が就任した(1861年)。 その後、普墺戦争(1866年)では、プロイセン側で参戦してオーストリアからヴェネツィア を取り戻した。普仏戦争(1870年)が始まると、フランス軍がローマから撤退した隙にローマ教皇領を占領した。ローマ教皇は怒りイタリア王国と絶縁した。1929年にムッソリーニがヴァチカンを国家として認め和解した(ヴァチカン市国)。 |
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【参考資料】
岐阜県まるごと学園 |