生い立ち |
1769年、ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島(Corsica)で生まれた。その後、フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官学校砲兵科に進んだ。士官学校では通常4年かかるところを、わずか11ヶ月という速さでスピード卒業した。 砲兵士官に任官すると、まもなくフランス革命が始まった。革命のさなか南フランスの港町トゥーロンで王党派の反乱が起こり、その鎮圧軍に従軍した。トゥーロンには王党派を支援するイギリスやスペインの艦隊が停泊していた。ナポレオンは港を見下ろす高地から敵艦を砲撃して追い払い、反乱を鎮圧した。ナポレオンはこの功績で一挙に砲兵隊司令官へと昇進した。 【コルシカ島 Corsica】長い間ジェノヴァが支配していた。18世紀に入ると独立運動が激化し、ジェノヴァはフランスに援軍を求めた。1769年、フランス軍はパスカル・パオリ(Pascal Paoli)率いるコルシカ軍を破り、島はフランス領になった。コルシカの独立は頓挫した。 |
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1794年、テルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されると、彼の弟と親交があったナポレオンは逮捕された。しかし、王党派の反乱が発生したため再び軍に登用され、得意の大砲で反乱を鎮圧した。これによって彼は中将に昇進し国内軍司令官となった。 翌年、貴族の未亡人で総裁バラスの愛人だった年上のジョゼフィーヌと結婚した。彼女はナポレオンをつまらない男と見ており、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。 1796年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官としてオーストリアが支配する北イタリアに遠征した。彼は各地でオーストリア軍を破り、北イタリアの諸都市を解放して市民から大歓迎を受けた。フランス軍がウィーンに迫ると、オーストリアは第1次対仏大同盟を破棄して講和条約を結んだ(カンポ・フォルミオ条約)。この条約によって、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、ヴェネツィアとジェノヴァ共和国が消滅した。パリに帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎を受けた。 |
パリ |
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1798年、29歳になったナポレオンは、イギリスとインドを結ぶ交易路を遮断するためオスマン帝国支配下のエジプトに遠征した。フランス軍はまずマルタ島に上陸してマルタ騎士団を解散させ、エジプトのアレクサンドリアに上陸した。そして、迎え撃ったエジプト軍をピラミッドの戦いで破りカイロに入城した。 ところが、ナイル川河口に停泊していたフランス艦隊が、ネルソン率いるイギリス艦隊に急襲されて全滅し、フランス軍はエジプトに閉じ込められてしまった。また、ナポレオンが不在のヨーロッパでは、イギリスを中心に第二次対仏大同盟が結成された。この同盟にはオスマン帝国も参加し、エジプトにムハンマド・アリーを派遣して反撃に転じた。 翌1799年、フランス軍はオスマン帝国が支配するシリアに進軍し、ヤッファを占領した。続いてその北の港湾都市アッコを包囲した(アッコ攻囲戦)。この包囲戦はトルコ軍の激しい抵抗で失敗した。またフランス軍内でペストが流行し、2か月後に大勢のペスト患者を置き去りにして撤退した。 ヨーロッパでは第二次対仏大同盟によってフランス軍が苦戦していた。ナポレオンはその知らせを受けると単身フランスに舞い戻った。残されたフランス軍は、イギリスとオスマン軍の攻勢に苦戦し2年後に降伏した。 |
エジプトには167名の学術調査団が同行した。彼らはロゼッタ・ストーンを発見し、カルナック神殿や王家の谷などの古代遺跡の調査を行った。ロゼッタ・ストーンの発見でエジプトの古代文字ヒエログリフが解読された。 |
アルプス越えから第1帝政へ |
エジプトから戻ったナポレオンを民衆は歓喜で迎えた。11月、ナポレオンはブリュメールのクーデターで総裁政府を倒し、3人の統領と四院制の立法府からなる統領政府を樹立した。彼は第一統領に就任し、独裁権を握った。 1800年6月、ナポレオンはアルプス越えで北イタリアに侵攻し、オーストリア軍を破った。オーストリアはライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアをフランスの保護国とした(リュネヴィルの和約)。また、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と和解し、イギリスとはアミアンの和約で講和して国家の安全を確保した。 内政面では税制や行政を整備し、壊滅的な打撃をうけた工業生産力を回復させた。また、フランス銀行を設立して通貨と経済の安定を図り、法を整備してナポレオン法典を発布した。この法典は、私有財産の不可侵、法の前の平等、契約の自由など近代的な価値観を取り入れた民法で、ハンムラビ法典、ローマ法大全とともに、世界の三大法典といわれる。 海外の植民地では、アメリカにルイジアナを1500万ドルという破格の値段で売却した。また、カリブ海イスパニョーラ島西部のフランス領サン・ドマングでは反乱が起き、ハイチ共和国として独立した。 1804年、国民投票で圧倒的な支持を受け、ナポレオン1世として皇帝の座に就いた(第1帝政)。 |
アルプス越えのナポレオン |
トラファルガーの海戦と三帝会戦 |
1805年、フランスの強大化を恐れたイギリスは、ロシア、オーストリアと第3次対仏大同盟を結成した。これに対してナポレオンは、イギリス侵攻作戦をたてドーバー海峡に大軍を集結させた。ネルソン率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガーの海戦(Trafalgar)で敗り、イギリス侵攻を食い止めた。この海戦でネルソンは戦死する。 しかし陸上ではフランス軍が快進撃し、ウィーンに迫った。オーストリア軍はロシア軍とともにアウステルリッツ郊外で迎え撃つが、ナポレオンの前に完敗した。この戦いは3人の皇帝が戦ったことから三帝会戦とも呼ばれる。第3次対仏同盟は崩壊した。 1806年、プロイセンが中心となって第4次対仏大同盟が結成された。ナポレオンは、プロイセンを攻めベルリンを占領、西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。これにより神聖ローマ帝国は崩壊し、オーストリア帝国となった。 |
ネルソン像(ロンドン トラファルガー広場) |
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1806年11月には大陸封鎖令を出し、イギリスとの禁じて経済的な打撃を与え、フランス産業を育成しようとした。 続いて、ポーランドに侵攻し、プロイセン・ロシア連合軍を破った。1807年7月、ティルジット条約が結ばれ、プロイセンは約半分の領土を失い、多額の賠償金を課せられた。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が建国され(ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが国王)、分割されたポーランドをワルシャワ公国として復活させた。 ロシアはイギリスに敵対する大陸封鎖令に参加し、スウェーデンにも封鎖令を強要することでフィンランドの獲得が容認された。その結果、1809年に第2次ロシア・スウェーデン戦争が起き、スウェーデンは敗北、フィンランドはロシアの属国となった。 この頃がナポレオンの絶頂期で、イギリスを除く全ヨーロッパを支配した。 |
パリの凱旋門(三帝会戦の勝利を祝してナポレオンが建築を命じた) |
没落 |
大陸支配は長くは続かなかった。彼は自由を掲げてヨーロッパを解放したが、それは民族意識を植えつけることにもなった。まず、兄ジョゼフ・ボナパルトが国王に就いたスペインで反乱が起きた(半島戦争あるいはスペイン独立戦争)。背後でイギリスやポルトガルが支援し、フランス軍は敗れた。 1809年、オーストリアとイギリスは第5次対仏大同盟を結成して反撃してきた。ナポレオンはウィーンに進攻し多大な損害を出しながら辛くもオーストリア軍を破った。ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズを妻に迎えた。 1812年6月、ナポレオンは同盟国から徴兵した60万の大軍でロシアに遠征した。大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したロシアを成敗するためである。ロシア軍はナポレオンとの会戦を避け、物資や食糧を焼き払いながら退却する焦土戦術をとった。フランス軍は徐々に疲弊していった。 フランス軍は9月になってようやくモスクワに到達した。兵力は1/3に減り、冬が近づいていた。最後の力を振り絞ってロシア軍を破りモスクワに入城したが、ロシア兵による放火でモスクワは焼け野原となった。フランス軍は食料を入手することができずモスクワを撤退した。冬将軍を味方につけたロシア軍の反撃が始まり、フランス軍は総崩れとなった。 |
モスクワからの退却するナポレオン ロシアから撤退できたフランス兵は僅か5,000名で、 馬20万頭と大砲1000門が失われた。 |
エルバ島 |
不敗のナポレオンがロシア遠征に失敗したことで、プロイセンを中心に第6次対仏大同盟が結成され、反ナポレオン闘争が開始された。1813年、ナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシアの連合軍にライプチヒの戦いで敗れた。彼はエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世が王位に就き、ブルボン朝が復活した。 ヨーロッパ各国は戦後処理のためウィーン会議を開いた。この会議はオーストリアの外相メッテルニヒによって主宰されたが、領土配分をめぐって利害が対立し、「会議は踊る、されど進まず」の状態になった。各国は保守反動的なウィーン体制を承認した。 しかし、フランス革命とナポレオン支配のもとで目覚めた自由主義・国民主義の精神を押さえつけることができず、まずラテンアメリカで独立運動が始まった。 |
ウィーン会議が開かれたシェーンブルン宮殿(ウィーン) |
百日天下 |
1815年2月、ナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り、国民の熱狂的な歓迎を受けた。ルイ18世は国外に逃亡した。再び帝位に就いたナポレオンは、連合国の対仏同盟が整う前にベルギーのワーテルロー(Waterloo)に進軍した。しかし、イギリス・プロイセン連合軍に完敗し、ナポレオンの百日天下となった。フランス第一帝政は崩壊した。 ナポレオンは南大西洋の孤島のイギリス領セントヘレナに流された。島での生活は常に監視された不自由なものだった。1821年、膨大な回想録を残したナポレオンは波乱の生涯を閉じた。51歳だった。遺骸はパリのアンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。 |
ナポレオンが眠るアンヴァリッド(パリ) |
その後のフランス |
ワーテルローの戦い後、ルイ18世がパリに帰還し再びブルボン復古王政が始まった。ルイ18世が亡くなると、弟のシャルル10世が即位した。彼はルイ14世時代の絶対王政を目指す反動的な政治を行ない国民の反発をかった。その不満をそらそうとアルジェリアに出兵したが、国内の不満はおさまらずブルボン朝は倒れた(7月革命、1830年7月)。アルジェリアはその後130年にわたってフランスに支配され、独立したのは1962年になってからである。 7月革命ではオルレアン家のルイ・フィリップが国王に擁立された。この王朝も長続きせず1848年の2月革命によって倒れ、第二共和政が始まった。大統領にはナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが選出された。1852年、彼は独裁権力を握るためクーデタを起こし、ナポレオン3世として皇帝に即位した(第二帝政)。彼はイギリスと同盟してクリミア戦争を戦ったり、フランス領西アフリカやマダカスカル、ベトナム、カンボジアを植民地化するなど積極的な外交を展開した。しかしメキシコ出兵で失敗し、普仏戦争で敗れプロイセンの捕虜となった。その結果、第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した(1870年)。第三共和政は、1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻まで存続した。 ナポレオン3世と徳川幕府との関係は深く、1858年には日仏修好通商条約が結ばれ、1867年のパリ万国博覧会には日本も出展している。万博の数年後には両政府とも瓦解してしまった。 |
ナポレオン3世 |
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