ローマ建国 | マルスとレア・シルヴィア リヒテンシュタイン美術館 ウィーン |
トロイを脱出した英雄アイネアスは、地中海をさまよってカルタゴに漂着した。そこで女王ディドと恋に落ちるが、彼女の愛を振り切ってカルタゴを出帆しイタリアのラティウム(ラテン人の町)にたどり着いた。アイネアスは美と愛の女神ビーナスの息子。素晴らしい容姿に夢中になったのが、ラティウムの王女ラウィニア。やがて二人は結婚し、トロイにかわる新しい町ラウィニウムを建設した。アイネアスが死ぬと、トロイから苦楽をともにしてきた息子のアスカニウスが後を継いだ。彼はラウィニウムを去って新しくアルバ・ロンガ王国を築いた。 それから300年以上が過ぎ、アルバ・ロンガは13代目の王のプロカが治めていた。彼には2人の息子がいた。プロカが亡くなると兄のヌミトルが王位を継いだが、すぐに弟のアムリウスに王位を奪われた。アムリウスはヌミトルの子孫ができないようにヌミトルの息子たちを殺し、娘のレア・シルヴィアをウェスタ(ヘスティア)の巫女に差し出した。ウェスタの巫女は処女に限られていた。 その巫女に一目惚れしたのが軍神マルスで、彼女が川のほとりでまどろんでいる隙に愛を交わした。二人の間に双子の男の子が生まれた。アムリウスは怒り、双子を籠に入れてテヴェレ川に流した。 |
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ロムルスとレムス |
パラティーノの丘に残るローマ遺跡 |
この双子がローマ建国神話の主人公、ロムルス(Romulus)と レムス(Remus)である。二人が流された籠はオオカミに拾われ、オオカミの乳を飲んで育った。その後羊飼いの夫婦が二人を引き取り、彼らは羊飼いのボスに成長した。やがて彼らは自分たちの素性を知り、配下の羊飼いを率いてアルバに攻めこんだ。そしてアムリウスを殺し、祖父のヌミトルをアルバの王に復位させた。 二人はアルバを離れてローマに移り住んだ。やがて二人は王位をめぐって対立し、鳥占いでどちらが王になるかを決めることになった。鳥占いは、二人が別々の場所に立ち、沢山の鳥が早く現れた方が勝ちというもの。まずアウェンティーノの丘にいたレムスの方に6羽が現れた。パラティーノの丘のロムルスの所には遅れて12羽が現れた。二人とも勝利を宣言した。そんなある日、レムスは二人の境界線を飛び越えた。ロムルスは怒り、レムスを殺した。そして、テヴェレ川のほとりにローマを建国した(BC753年)。 【パラティーノの丘(Palatino)】英語のPalace(宮殿)の語源。 |
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サビニ族の女達の略奪 (The Rape of the Sabine Women) フィレンツェ ロッジア・ディ・ランツィ |
建国したローマには多くの人々が集まったが、大半は男だった。ロムルスは近くに住むサビニ族の女達に目をつけ、多くの未婚女性を略奪した。サビニ族は怒りローマに攻め込んだが、既に子を産んでいた女性たちは戦いの中止を訴えた。「ローマが勝てば私が父を失い、サビニが勝てば子供が父を失います。どっちが勝っても私たちは不幸になります」。両軍は戦いを中止し、両国は合体して1つの国家になった。花婿が花嫁を抱きあげて新居に入る風習は、この事件に由来している。 ローマは近隣部族を併合し、国力は増大した。ローマの政治は、王と王を補佐する元老院と、王を選ぶ市民集会によって運営された。ロムルスの次にはサビニ族のヌマが王になった。
【SPQR】 ローマでよく見かけるこの文字は、ラテン語で「Senatus Populusque Romanus」:元老院とローマの市民。 |
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共和政へ |
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ローマの王政は突然崩壊した。王の息子セクストゥスが部下の妻ルクレティアを暴行する事件をおこしたのである。BC509年、ローマはアルデアの町を攻囲していた。その陣中でセクストゥスやその部下たちが妻の自慢話をしていた。ある日彼らは陣を抜け出し妻の様子を見に行った。ほとんどの妻たちは宴会に興じていたが、ルクレティアは留守を守って糸紡ぎをしていた。セクストゥスはそんな彼女に一目惚れした。 後日、セクストゥスは一人でルクレティアを訪ねた。彼女は夫の友人を歓待し寝室まで用意した。夜も更けて家中が寝しずまると、セクストゥスは彼女の部屋に忍び込み強姦した。彼女はすぐにローマにいる父や戦場にいる夫を呼び寄せた。彼女は彼らにすべてを告白し、復讐を誓わせてから短剣を胸に突き刺した。 彼らは市民集会を開き、王とその一族をローマから追放することを提案した。ローマ市民のタルクィニウスに対する不満は爆発し、国王一族を追放した。こうしてローマは終身の王による独裁政治から、任期1年の2人の執政官(コンスル:Consul)が治める共和制に移行した。 |
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平民の身分闘争 | パラティーノの丘から見たチルコマッシモ(大競技場) |
ローマは周辺都市を次々と同盟国にしていった。国が大きくなると、貴族と平民の対立が始まった。政治を独占する貴族に対して、重装歩兵として戦っている平民は参政権を要求した。BC494年、平民出身者の役職である護民官の制度ができ、護民官は執政官の命令に拒否権を行使できるようになった。 また、貴族が独占していた法制度は、12枚の銅板に内容を刻んで成文化し平民に公開した(BC451年、十二表法)。十二表法はその後のローマ法の基本となった。BC367年にはリキニウス・セクスティウス法で執政官の1人は平民から選出することになり、BC287年のホルテンシウス法によって市民会の決定が元老院の承認なしでローマの法律になることが定められた。平民の権利は大幅に拡大した。 BC390年、ケルト人(ガリア人)が南下してきてローマを占拠した。ケルト人は7ヶ月間残虐の限りをつくした。この時十二表法の銅版も失われた。ローマはケルト人に身代金を払って追い払った。再び独立を回復したローマはエトルリア人の都市やギリシアの殖民都市を次々と併合し、BC270年にイタリア半島を統一した。 |
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ポエニ戦争 | カルタゴ遺跡 |
地中海へ目を向けたローマは大国カルタゴとぶつかった。シチリアのメッシーナとシラクサの抗争がきっかけで、100年にわたるポエニ戦争が始まった。第1次ポエニ戦争ではローマが勝ってシチリアを獲得した。その20年後の第2次ポエニ戦争では、カルタゴの名将ハンニバルがイタリアに侵攻した。ローマは各地で敗れ、カンネの会戦では壊滅的な打撃を受けた。しかし、スペインを平定したスキピオがアフリカに上陸し、ザマの会戦でハンニバルを破りローマが勝利した。 第2次ポエニ戦争後、ローマはハンニバルと同盟したマケドニアを攻めマケドニア王国を滅ぼした。続いてギリシアに侵攻しローマに反抗的な都市国家(ポリス)を攻略した。その中でコリントスに対する攻撃はすざましく町を徹底的に破壊した。また同じ年にカルタゴに攻め入って完全に滅ぼした(第3次ポエニ戦争)。こうしてカルタゴやマケドニア、ギリシアはローマの属州になった。 元々ローマは敗者に対して寛容でその民族の文化を尊重した(commonwealth)。しかし、大国になったローマは寛容さを失い、カルタゴやコリントスの町を徹底的に破壊し全住民を奴隷にして売り飛ばした。 |
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【参考資料】
ローマ人の物語 塩野七生 新潮文庫 ローマ帝国 金森誠也 日本文芸社 |