オスマン帝国 その3
青年トルコ革命
テッサロニキ(ギリシア)のホワイトタワー

 オスマン帝国の領土はどんどん侵食されていった。1881年、アルジェリアを占領したフランスがチュニジアに進出、翌年にはイギリスがエジプトを占領した。1885年、ブルガリアは東ルメリアを併合し、1897年にはギリシアがクレタ島に侵攻した。

 1908年、帝国崩壊の危機に西欧で近代教育を受けた青年将校達の秘密結社青年トルコ党(統一と進歩委員会または統一進歩団)がテッサロニキで武装蜂起した(青年トルコ革命)。反乱軍はミドハト憲法と議会の復活を要求し、アブデュルハミト2世を退位させた。そして、汎トルコ主義を掲げた青年トルコ党政権ができた。

伊土戦争(Italo-Turkish War)
レプティス・マグナ遺跡(リビアのローマ遺跡)

 トルコが革命で揺れている1911年、アフリカ最後の拠点リビアにイタリアが侵攻し、伊土戦争が始まった。イタリアは1896年にエチオピアに侵攻したが、エチオピア軍に反撃され失敗した。アフリカでの植民地獲得競争に乗り遅れたイタリアは、革命で揺れるトルコ領リビアに目をつけたのである。

 トルコ軍は砂漠に逃れてゲリラ戦を展開した。イタリアは沿岸部の数都市しか占領できず、戦争は長期化した。この状況に、ヨーロッパ列強が介入し、イタリアに有利な条件で調停が進められた(ローザンヌ講和会議)。

 トルコはこれに不服だったが、バルカン戦争が始まりやむなく講和した。リビアはイタリアの植民地となり、第二次世界大戦後の1951年に独立するまでその支配が続いた。

 この戦争で偵察や爆撃に初めて飛行機が使われた。

バルカン戦争

 

 

 

 

 

 

 

 

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 1911年、アルバニア独立運動が始まった。ギリシア・セルビア・ブルガリア・モンテネグロはトルコに宣戦布告した(第一次バルカン戦争)。ブルガリアはイスタンブル近郊にまで進軍し、セルビアはマケドニアを、ギリシャはテッサロニキを手中に収めた。しかし、オスマン軍の反撃により戦線は膠着し、ロンドン講和会議が始まった。

 1913年、今度はマケドニアをめぐってバルカン同盟内で対立が始まった。ブルガリアはギリシャとセルビアを攻撃し第二次バルカン戦争が始まった。これに対してモンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国はブルガリアに宣戦布告した。ブルガリアは孤立し2ヵ月後に降伏した。ブカレスト講和会議が開かれた。

 第二次バルカン戦争の講和会議でオスマン帝国はヨーロッパの領土の大半を失った。また、第一次バルカン戦争で多くの犠牲を払ったブルガリアは苦労して獲得した領土を失い、大きな不満を残した。また、アルバニアの独立が正式に認められた。しかし、多くのアルバニア人が住むコソボはセルビアとモンテネグロが分割支配した。これがその後のコソボ紛争の原因となっている。

 1913年、青年トルコ党のタラートやエンヴェル(Enver)らがクーデターを起こし、統一派政権を作った。この政権は、ドイツとの提携を深め、帝国は崩壊への道を歩んでいった。

第一次世界大戦


激戦地ガリポリ半島とダーダネルス海峡

 1914年6月28日、オーストリアの皇太子がボスニアの首都サラエヴォでセルビア人民族主義者に暗殺された。オーストリアはセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。ドイツを支援するトルコはブルガリアとともに同盟国側で参戦した。スルタンは聖戦を布告してイスラム世界の団結を呼びかけた。しかし、アラビア諸国の反応は冷ややかだった。

 エンヴェルは東部アナトリアに進出してきたロシア軍と対峙した。ロシアはアルメニア人に独立を約束してトルコ軍を攻撃させた。祖国を裏切ったアルメニアに対するトルコの怒りは激しく、アルメニア人の大量虐殺やシリアへの強制移住などが行われた。1917年になるとロシア革命が起こって戦局は一変し、ロシア軍やアルメニア軍はコーカサスに敗走した。その後、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンが独立した。

 ガリポリ半島では、イギリス軍を中心にフランス軍やアンザック軍(オーストラリア、ニュージーランド)の計8万が上陸した。ケマル・パシャ率いるトルコ軍は善戦し、連合軍を追い落とした(ガリポリの戦い)。

アラビアのロレンス

 メッカやメディアがあるアラビア半島はトルコが支配していた。イギリスの駐エジプト大使マクマホンはメッカの太守フサインに近づき、アラブの独立を約束する代わりに蜂起を促した(フサイン・マクマホン協定)。この協定に従いフサインは1916年6月にアラブの独立を宣言し港町ジッダを占領、続いて紅海沿岸の諸都市を攻略した(アラブの反乱)。

 イギリスはアラブ軍を指導するため若い士官ロレンスを派遣した(アラビアのロレンス:Thomas Edward Lawrence)。ロレンスはフサインの息子ファイサルの軍事顧問として戦い、ゲリラ戦を展開してダマスカスとメディナを結ぶヒジャーズ鉄道(Hejaz railway)を各地で破壊した。補給路を寸断されたイエメンやメッカのトルコ軍は孤立し降伏した。

 1917年、アラブ軍はトルコ軍の拠点アカバ(Aqaba)を攻め落とした。続いてエルサレムに進軍し、1918年にはダマスカスを落とした。ファイサルは、ダマスカスでアラブ臨時政府を樹立した。しかし、オスマン帝国領をイギリスとフランスとで分割することを決めたサイクス・ピコ協定の存在を革命ロシアが暴露した。アラブ軍はイギリスの裏切りを知った。

 戦後、パリ講和会議でファイサルとロレンスはアラブ独立国家の建設を主張した。しかしこの主張は認められず、アラブの独立を約束したフサイン・マクマホン協定は反故にされた。またイギリスはユダヤ人にパレスチナ入植を認めるバルフォア宣言を行っており、この三枚舌外交が今日のパレスチナ問題の原因となっている。

トルコ共和国


ムスタファ・ケマル(アンカラのアタテュルク廟)

 1918年9月にブルガリアが降伏、トルコも力尽きて10月に降伏した。連合国が占領軍として国内に進駐し、戦争を指導した統一派政権の幹部はドイツへ逃れた。エンヴェルはロシア経由でトルキスタンに脱出し、対ソ連闘争を始めた。しかし、赤軍に追い詰められ壮烈な戦死を遂げた。

 1920年、国の大半を連合国に分割するセーヴル条約が結ばれた。この国家存亡の危機にムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)が立ち上がり、アンカラにトルコ大国民議会を組織した。

 大戦末期に連合国として参戦したギリシアはイズミルに進駐し、アンカラに攻め上った。ケマル率いるトルコ軍は反撃し、ギリシア軍を押し戻してイズミルを奪還した。トルコと連合国は新たにローザンヌ条約を結び現在のトルコ国境が決められた。トルコは、アラブや北アフリカ、キプロス、ロードス島など国外の全領土を失った。また、100万人のキリスト教徒がトルコからギリシアに、50万人のイスラム教徒がギリシャからトルコに移住した。

 1922年、大国民議会はスルタン制を廃止し、メフメト6世は国外に亡命してオスマン帝国は滅亡した。翌1923年、共和制を宣言し、多民族国家オスマン帝国はトルコ民族のトルコ共和国となった。また、ケマルにアタテュルク(父なるトルコ人)という称号が贈られた。

年表に戻る 【参考資料】
新月旗の国トルコ 武田龍夫 サイマル出版会
バルカンの歴史 柴宜弘 河出書房新社
納得しなかった男エンヴェル・パシャ 中東から中央アジアへ 山内昌之 岩波書店