概要 | ![]() 大韓民国の首都ソウル |
1910年、日本は大韓帝国を併合し朝鮮半島を植民地化した。日本の支配は強圧的で、朝鮮人の自治や言論・集会・結社などの自由を認めなかった。1919年には民族自決の流れを受け大規模な独立運動(三・一運動)が起きた。この運動は全土に拡がったが、数千人の死者を出して鎮圧された。日本軍は朝鮮を大陸への侵出拠点とし、植民地支配も創氏改名や朝鮮人の強制連行、慰安婦の徴発などの皇民化政策が推進された。 第二次世界大戦中の1943年、米、英、中国の首脳は朝鮮半島を日本の支配から解放するカイロ宣言を発表した。また、1945年2月のヤルタ会談では、朝鮮を米英中ソの4ヶ国が信託統治することが合意された。 1945年、日本はポツダム宣言を受諾し9月2日に降伏文書に調印した。ソ連軍は朝鮮半島北部を占領し、アメリカは朝鮮半島南部に上陸して、北緯38度線を境に米ソによる分割統治が始まった。1948年になると南朝鮮では大韓民国が建国され、李承晩が大統領に選ばれた。北朝鮮では満州で抗日運動を行っていた金日成が朝鮮民主主義人民共和国を建国し、両国は北緯38度線を挟んで対峙した。 |
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1950年6月、ソ連の支援を受けた北朝鮮は北緯38度線を越えた。突然の攻撃に韓国軍は総崩れとなり、首都ソウルを放棄して潰走した。 勢いに乗る北朝鮮軍は韓国軍を南に追い詰めた。国連はアメリカ軍を中心とする国連軍の派遣を決定し、総司令官にマッカーサーを任命した。米韓軍は半島南端の釜山に釜山橋頭堡と呼ばれる防御陣地を構築して北朝鮮軍の進撃を食い止めた。 1950年9月、マッカーサーは戦局を一変させるため仁川上陸作戦(インチョン)を強攻した。それに呼応して米韓軍の反撃が始まり、北朝鮮軍は押し戻された。米韓軍はソウルを奪回、さらに38度線を越えて平壌(ピョンヤン)を陥落させた。 1950年10月、米韓軍が中国国境に迫ってくるのを見た毛沢東は、大量の中国人民志願軍を北朝鮮に送り込んだ。中国人民志願軍(または人民義勇軍)は表向き中国の軍隊でなく、志願兵で構成された軍隊という形式をとった。1年前に中華人民共和国として成立ばかりの中国にとっては、台湾問題など大きな課題を背負いながらの参戦だった。突然出現した中国軍に米韓軍は平壌を奪還され、ソウルまでも制圧された。マッカーサーは体制を立て直してソウルを奪還し、北朝鮮・中国軍を38度線まで押し戻した。そこで戦線は膠着した。 |
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マッカーサーは戦線の膠着を打開するため、中国本土への爆撃と原爆の使用を強硬に主張した。しかし、トルーマンはそれを拒否し両軍は休戦交渉に入った。長い交渉の結果、1953年7月27日に南北朝鮮代表、米中代表などが板門店で休戦協定に署名した。 休戦協定によって、南北朝鮮を分断する軍事境界線が設けられ、「最終的な平和解決が成立するまで朝鮮における戦争行為とあらゆる武力行使の完全な停止を保証する」と規定された。しかし、「最終的な平和解決」は今でも成立していない。 |
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【参考資料】 |