スパルタクスの乱
戦いの背景
カプアに残る円形闘技場

 ローマはカルタゴを滅ぼし地中海の覇権を握ると、周辺諸国を次々と属州化していった。侵略戦争の拡大にともない、戦争捕虜や、税を払えない属州民が、奴隷として連れてこられた。奴隷が増加すると、その価格は下落し、虐待は一層激しくなった。

 国外では反ローマ闘争が各地で起こっていた。スペインではローマの元将軍セルトリウスが原住民とともに立ち上がり、小アジアではポントスのミトリダデスが反旗を翻した。バルカン半島ではトラキア人が反抗し、地中海では海賊が暴れていた。

 この頃、イタリア半島南部の重要都市カプア(Capua)で脱走を企てる奴隷たちがいた。南イタリアには大規模な農場があり、そこには多くの奴隷が働いていた。カプアには剣闘士養成所や闘技場があった。 剣闘奴隷(グラディエータ:Gladiator)は、ガリアやバルカンから連れてこられた捕虜が多く、ローマに敵意を抱き反抗的だった。彼らはローマ人の娯楽のために、仲間や猛獣と殺し合いをさせられていた。

蜂起
剣闘士の戦い

 BC73年春、トラキア出身の剣闘士スパルタクス(Spartacus)が脱走を呼びかける。「ローマ人の見せ物になるより、自分達のために戦おう」と。200人が荷担し、台所を襲撃、包丁や焼き串を奪って74人が脱走できた。町に出た彼らは通りがかった馬車から武器を奪い、ベスビオ山(ローマ名:ウェスウィウス山)に立てこもった。そこには多くの奴隷が集まってきた。

 ローマは、3000人の軍団を派遣した。単なる奴隷の脱走と甘く考えた寄せ集めの軍団だった。ローマ軍は山頂に通じる一本の山道を封鎖し、奴隷たちが飢えるのを待った。

 スパルタクスは、反対斜面から葡萄の枝のはしごで山を降り、油断していたローマ軍を急襲した。 この勝利で多くの武器が手に入り、奴隷軍の士気は一気に高まった。

相次ぐ勝利

 

 

 

 

 

 

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 武器を手にした奴隷軍は、ベズビオ山周辺の町を次々に占領した。これに対して、元老院はウァリニウスと12,000の兵を派遣、二手に分かれ奴隷軍を挟み撃ちにした。

 ウァリニウス本隊と対峙していたスパルタクスは,、ひそかに後方の別働隊を急襲し、指揮官を戦死させた。そして、即座に反転してウァリニウス本隊を急襲した。奴隷軍はカンパニア平原に出た。

 6月のカンパニア平原は収穫の時期で、多くの奴隷が収穫物を持って駆けつけた。兵力は2万人を越えた。しかし、教養のある都市奴隷は参加せず、ローマに反抗的な都市も援助してくれなかった。奴隷軍は自力で必需品を調達(略奪)しなければならなかった。

 ローマから援軍が南下してきた。奴隷軍の数は増えていたが、装備が不充分だった。そのため、ローマ軍との対決を避け、イタリア南端のルカニア地方に進んだ。ここから二手に分かれ、スパルタクスはメタポントゥム(現メタポント)へ、別働隊クリコスはコセンティア(現コゼンツァ)を占領した。

 二つの部隊はトウリイで合流し、ここで冬を越した。この頃には、奴隷軍は7万人に膨れ上がった。奴隷たちを縛った鉄の鎖は、武器工場で武器に生まれ変わっていった。

北上、故郷を目指して


闘技場の中(カプア)

 BC72年春、奴隷軍は訓練や装備の充実により、強力な軍隊に成長していた。しかし、どこに進むべきか目標がなかった。「アルプスを越えてそれぞれの故郷に帰る」 これが結論だった。アルプスを越えれば、そこはローマではない。そして、ガリアやトラキアへ帰り、ローマと戦っている仲間に合流することが目標となった。全軍はメタポントゥムに集結、アルプスを目指して北上を開始した。

 奴隷たちは食料を略奪しながら行軍した。そのため後衛のクリコス隊が通る頃には略奪する食料は何も残っていなかった。クリコス隊はやむなく本隊から離れた道を選んだ。そこをローマ軍は急襲し、クリコスは戦死、ローマ軍は初の勝利をつかんだ。

 奴隷たちは追いすがるローマ軍を振り払いながら、イタリア中部にやってきた。農場から大勢の奴隷が脱走してきて参加し、戦力は一気に回復した。奴隷軍は、ピケヌム(マルケ州)でローマ軍と遭遇しこれを破った。

 アペニン山脈を抜けポー河の平原に出た頃、奴隷軍は12万人に膨らんでいた。彼らの前に、1万人のローマ軍が立ちふさがったが、これを一蹴し、ついに目の前からローマ軍の姿は消えた。

クラッスス登場
(Crassus)

シチリア(アグリジェント)

 奴隷軍はアルプス越えの準備を始めた。しかし、南イタリアと違って食料調達が思うように進まず、アルプスには雪が降り始めた。そこに、スパルタクスの故郷トラキアがローマに制圧されたとの情報が入った。目指す故郷を失い、アルプス越えの時期を逃した奴隷軍はアルプス越えを断念し、食料が豊富なシチリアを新しい目標に定めた。

 奴隷軍は、苦労して来た道を戻り始めた。元老院は迎撃を命じた。両軍はピケヌム付近で対決、またもやローマ軍は敗れた。元老院は討伐司令官に大金持ちのクラッススを任命、6軍団を授けた。この軍団の費用は、全てクラッススの私費で賄われた。元老院にはもはや大軍団を養う力がなかった。さらに、残存部隊を合わせ、合計10軍団6万人の部隊が編成された。

 BC72年11月のことで、奴隷たちが蜂起してから、すでに1年半が過ぎようとしていた。

シチリア渡航失敗 メッシーナ海峡(対岸がシチリア島)

 奴隷軍はアペニン山脈東側を南下、クラッススはこれを攻撃するが大敗北を喫っした。奴隷軍の強さに驚いたクラッススは、元老院にポンペイウスとルクルスの召還を要請した。クラッススは、奴隷軍との直接対決を避け、遠征軍の帰還まで時間を稼ぐ作戦をとった。一方で外交によってクレタの海賊を手なずけ、奴隷軍とミトリダデスとの間を裂いた。また、反ローマ的な南イタリアの都市には、ローマ市民権を与えて奴隷軍に協力しないように手を回した。

 奴隷の味方はキリキアの海賊だけになった。キリキアの海賊は、奴隷たちをシチリアに運ぶことを約束、奴隷軍はレギウム(現レッジョ)に急行した。やっとの思いでたどり着いたレギウムには、一隻の船もいなかった。海賊もすでにローマに買収されていた。奴隷たちはいかだで渡航を試みるが、ことごとく失敗に終わった。

 クラッススは、奴隷たちを半島に閉じ込めようと包囲線を構築し始めた。長さ55キロにわたって深い溝を掘り、その上に城壁と柵を築いた。そして、ついにスペイン遠征軍ポンペイウスが帰還してきた。歴戦の精鋭部隊である。奴隷軍とローマ軍の力関係は完全に逆転した。

最後の戦い
アッピア街道に連なるアッピア門(サン・セバスティアーヌ門)

 包囲線に閉じ込められた奴隷軍は、強行突破を敢行した。目の前の道は開けたが、どこに向かうのか目標がなかった。奴隷達はその日を生きるために略奪を繰り返した。スパルタクスの求心力も衰え、別行動をとる部隊が出始めた。本隊から離れた部隊は、個別に撃破されていった。

 スパルタクスは残存部隊を結集し、追撃するローマ軍に決戦を挑んだ。双方入り乱れての大乱戦となり、奴隷軍は大きな被害を出しながらも敵を押し戻した。戦いは早朝から日没までの12時間におよんだ。徐々に形勢は逆転し、奴隷軍の1万5千人が戦死、5千人が逃亡した。

 奴隷軍は、北に進むことを諦め、南へ向かった。敵の執拗な攻撃に、奴隷たちは疲れていく。 スパルタクスは、ブルンディシウム(現ブリンディシ)に行き、そこから船でイタリア脱出を考えていた。

 しかし、小アジアでミトリダテスを破ったルクルス(Lucullus)がブルンディシウムに上陸したとの知らせが入る。

全滅
奴隷が磔にされたアッピア街道

 全ての望みが消えた。敵は迫ってくる。ルクルスとクラッススのどちらと戦うか。スパルタクスはクラッススを選択、奴隷軍は反転しメタポントゥム北西で最後の戦いに挑んだ。奴隷軍は負けることが許されず、凄惨な戦いとなった。

 次第に、奴隷軍は劣勢になっていく。スパルタクスは局面打開のため、一隊を率いてクラッスス本陣に突進した。しかし、敵陣は深く、部下は次々と倒れていく。なおも単騎突進するが、槍で突かれて落馬、そこをローマ兵に切り込まれる。それでも激しく抵抗し、最後は誰の死体か判らないほどに切り刻まれた。

 スパルタクスが倒れてからは一方的な殺戮になった。ここで6万人が戦死、捕虜となった6千人は、カプアからローマに続くアッピア街道に磔にされた。彼らはなぶり殺しにされ、鳥についばまれた。

 結局、奴隷たちは故郷に帰ることも、ローマから逃れることもできなかった。

その後のローマ
スパルタクス像(ルーブル美術館)

 最後の戦場から逃げのびた奴隷は2万人、彼らはその後も戦い、一時ブルッティウム半島を支配した。反抗はそれまでだった。BC70年、ポンペイウスの掃討戦により奴隷軍は全滅した。

 この反乱は奴隷の処遇改善のきっかけとなった。酷使して反抗されるより、自主的に働かせた方が得と気付いたのである。奴隷の生活は徐々に改善され、帝政期には鎖をはずされ、結婚して家族を持てるようになる。そして、主人の土地を耕し、収穫の一部を自分の物にできる小作人になっていく。

 ローマ市民が熱狂した剣闘士の試合は404年まで、猛獣演技は523年まで続いた。試合はコロッセウムで行われた。試合の流血を見ることが、ローマ軍の強さを保持する一因だったといわれている。

 奴隷軍を破ったのはクラッススだが、その功績は掃討戦を行ったポンペイウスのものになった。BC70年、クラッススとポンペイウスは揃ってコンスルに就任する。共和制を支えた中小農民は没落し、ローマは帝政に向かっていく。

 その後、クラッススとポンペイウス、カエサルの3人による第一回三頭政治が始る。シリアの統治権を得たクラッススは、パルティア遠征を行うが、BC53年、カルラエの戦いで息子とともに戦死した。ほどなくポンペイウスはカエサルに敗れエジプトで殺害された。

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【参考資料】
    「新版 スパルタクスの蜂起」 土井正興著  青木書店