ローマ帝国 (共和制〜帝政)

混乱の時代

 ローマはポエニ戦争マケドニア戦争に勝利し、地中海全域を支配した。ローマは豊かになったがそれは一部の支配層だけで、重装歩兵としてローマ軍を支えてきた中小農民は没落した。生活に困った農民は土地を手放し、失業者となってローマなどの大都市に流入した。農民の減少は兵士の減少につながり、ローマ軍の質や量は低下した。この状況に各地で反乱や対立が起き、ローマ共和政は崩壊の危機を迎えた。


ヌミディア王国の遺跡(チュニジア:ブラレジア)

BC135〜
BC104〜
シチリア奴隷蜂起
第二次ポエニ戦争後、ローマの属州となったシチリアで2回にわたって大規模な奴隷蜂起が発生した。ローマは数年がかりで反乱を鎮圧した。
BC134〜121
グラックス兄弟の改革

農民の窮状を見た兄のティベリウスは、大土地所有者から土地を没収し、それを没落農民や失業者に配分する農地改革を行おうとした。しかし、護民官の選挙活動中に反対派に襲われ殺害された(BC133年)。弟のガイウスも護民官となって改革に取り組んだが、元老院と対立し殺害された(BC121年)。

BC112〜105
ユグルタ戦争
同盟国ヌミディアは、ユグルタが王になるとローマに敵対した。ローマは軍を派遣したが、弱体化したローマ軍はヌミディアを攻めあぐんだ。マリウスは軍制改革を行いヌミディアに打ち勝った。
BC91〜89
同盟市戦争
ローマと同盟関係にあるイタリアの諸都市が、ローマ市民権を求める戦いを起こした。戦いは3年におよび戦死者は30万といわれている。結局ローマは全都市に市民権を与えた。この戦争で活躍したのがスッラである。
ミトリダテス戦争

 ユグルタ戦争に参加したマリウスは、弱体化したローマ軍を目の当たりにした。彼は軍制改革を訴えて執政官になり、兵士の募集を従来の徴兵制から志願制に変更した。こうして失業者も軍人という職業を得ることができるようになり、全兵士が職業軍人となったため士気は大いに上がった。その後、ローマ軍は連戦連勝し、彼は6年連続で執政官に選ばれた。

 同盟市戦争でイタリアが内乱状態になると、ポントスのミトリダテスが小アジアのビテュニアやベルガモンを蹂躙し、ギリシアに進出した。アテネやスパルタなどはローマを裏切ってミトリダテスについた。元老院はスッラ(Sulla)をギリシアに派遣することを決めた。ところがマリウスが護民官と組んでスッラの権力を奪い取った。かろうじてローマを脱出したスッラは兵士を募り、軍を掌握してクーデターを起こした。彼はマリウス派を弾圧、マリウスはアフリカに落ち延びた。

 再び執政官になったスッラは、ギリシアに上陸してアテネを攻め、続いてカイロネイアでミトリダテスの大軍を打ち負かした。これが第一次ミトリダテス戦争である(BC88〜85年)。ミトリダテスはその後もローマと2回も戦ったが敗れ、最後はボスポロスに逃れて自殺した(BC63年)。

マリウスとスッラ
アッピア街道にあるドゥルーズ門

 マリウスともう一人の執政官キンナは、スッラがギリシア遠征中に政権を奪取し、1000人以上のスッラ派のメンバーを殺害した。BC86年、マリウスとキンナは執政官に任命された。マリウスにとっては7度目の執政官就任だったが、数日後に急死した。70才だった。2年後にはキンナも事故死した。

 BC83年、ようやくスッラが動いた。彼はギリシアからイタリア半島南端のブリンディシに上陸し、アッピア街道をローマに向けて北上した。途中でマリウスに父を殺害されたポンペウスクラッススらが合流しスッラの軍勢は75,000に膨れ上がった。一方、ローマの正規軍は12万の軍勢で迎え撃った。2年にわたる戦いに勝利したスッラはローマに入城し、マリウスやキンナにつながる膨大な数の人物を粛清した。この時、セルトリウスはスペインに、カエサルはビチュニアに逃げた。

 スッラは強大な権限を持つ独裁官に就任し、さまざまな改革を行った。BC79年に政界から引退し、翌年にあっけなく死んでしまった。60才だった。

ポンペイウス
(Pompeius)

古代ローマ遺跡フォロ・ロマーノ

 スッラが亡くなるとポンペイウスが権力を握った。彼はスペインに遠征し、セルトリウスの反乱軍を4年がかりで鎮圧した。彼の名にちなんで作られたバスク地方の町が、牛追い祭り(サンフェルミン祭り)で有名なパンプローナ(Pamplona)である。この戦役中にローマではスパルタクスの乱が起こっていた。

 スペインから帰還したポンペイウスは、直ちにスパルタクスの乱の残党を掃討し、BC70年にクラッススとともに執政官に就任した。ポンペウスの活躍は続き、BC67年には地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐、翌年には小アジアに遠征してポントス王国を滅ぼした。BC64年にはシリアに進軍してセレコウス朝シリアを滅ぼし、続いてユダヤ(ハスモン朝)へ軍を進めてエルサレムを陥落させた。この一連の遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からシリア、パレスティナまで広がった。

 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、元老院がこれに反発し彼から軍事権を取り上げた。この時、ポンペイウスに手をさしのべたのが41歳のカエサルだった。ポンペイウスはカエサルの娘ユリアを新しい妻として迎えた。

ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)

英語読み:ジュリアス・シーザー


カエサル像:ナポリ国立考古学博物館場

【カエサル】 ローマ皇帝の称号になる。ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリなど皇帝を示す言葉になった。

 スッラの死後ローマに帰還したカエサルは、政治に参画し力をつけていった。彼は民衆に絶大な人気があり、BC60年に執政官に就任した。そして、ポンペイウスやクラッススと三頭政治を始め、ガリア(フランス・ベルギー)に遠征した。ケルト人の一派のガリア人は激しく抵抗し、戦いは7年におよんだ。BC52年、アレシアの戦い(Alesia)で敵将ウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)を捕虜にしてガリアを制圧した。この時書いたのがガリア戦記である。その後カエサルはドイツやイギリスにも遠征した。
ウェルキンゲトリクス像(クレルモン・フェラン

 シリア方面を担当したクラッススは、パルティアに遠征するがカルラエの戦いで息子とともに戦死した(BC53年)。クラッススの死により三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まった。 ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪してガリアからの帰還命令を出した(BC48年)。

 一人で帰れば命が危ない。軍団を連れて帰れば反逆者となる。悩んだカエサルは決断した。「さあ進もう。神々と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた」と叫び、軍団を率いてルビコン川を渡った。ローマには軍を連れて行けなかったが、彼は反逆者となってローマへ進軍した。不意をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れた。ローマを制圧したカエサルはポンペイウスを追撃し、 ギリシアのファルサルスの戦い(Pharsalus)で破った(BC48年)。 ポンペイウスはエジプトに逃げた。

クレオパトラ

 

 

 

 

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クレオパトラの死(フィラデルフィア美術館)

 エジプトは、絶世の美女クレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が共同統治していた。クレオパトラはローマの力を借りてエジプトを存続させようと考えていたが、弟は反対し内乱状態になっていた。そこにポンペイウスが逃げ込んできた。彼の扱いに困ったエジプトは、ローマの機嫌をとるためポンペイウスを殺害した。

 ポンペイウスを追撃してきたカエサルがエジプトに上陸すると、クレオパトラは絨毯に身をくるんで、彼に贈り物として届けさせた。彼女はカエサルの愛人となり、プトレマイオス13世を滅ぼした。エジプトに平和が訪れ、二人の間には息子カエサリオン(小カエサルの意味)が生まれた。また、カエサルはエジプトの暦の正確さに驚き、その暦をもとにユリウス暦を作った。


絨毯から現れるクレオパトラ

 カエサルは終身独裁官に就き、元老院を無視して独裁政治を始めた。元老院は反発し暗殺の謀議を始めた。 BC44年3月15日、いつもより遅れて元老院に現れたカエサルを待ち受けていたブルートゥスが刺した。 彼は「ブルートゥス、お前もか・・・」と叫び絶命した。55歳だった。ブルートゥスはカエサルの愛人の息子(元の夫の子供)だった。 カエサルの死後、部下のアントニウスレピドゥスが権力を握ったが、カエサルの遺言状によりオクタウィアヌス(Octavianus)が後継者になった。

アウグストゥス
Augustus

アウグストゥス像:サラゴサ(スペイン)

 オクタウィアヌスはBC63年にローマで生まれた。父は元老院議員で彼が4歳の時に死亡、母はカエサルの姪のアティアだった。カエサルが暗殺された時、彼はまだ18歳だった。国外にいた彼は急いでローマに戻り、アントニウス、レピドゥスと第2回三頭政治を始めた。彼らはカエサルの仇のブルトゥスやカッシウスを追い、ギリシアのフィリッピの戦いで討ち果たした。そして、それぞれの支配地域をオクタウィアヌスは帝国の西半分、アントニウスは東半分、レピドゥスは北アフリカと決めた。

 やがてオクタヴィアヌスとアントニウスの対立が始まった。オクタウィアヌスは関係を修復するため姉のオクタウィア(Octavia)とアントニウスを結婚させた。しかし、アントニウスは、タルソス(トルコ)で知り合ったクレオパトラに夢中になりエジプトで暮らし始めた。ローマ市民はエジプトに魂を奪われたアントニウスを非難した。アントニウスは名誉挽回にとパルティアに遠征するが惨敗、やがてオクタウィアとも離婚した。オクタウィアヌスは、アントニウス討伐を決断した。

 もう一人のレピドゥスはオクタウィアヌスと対立して失脚した。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦が行われた海
(ギリシアのプレヴェザの要塞から撮影)

 BC31年、アクティウム沖で両軍合わせて500隻以上の艦船による決戦が行われた。当初はアントニウス艦隊が有利だったが、やがて形勢は逆転しクレオパトラ艦隊が戦線を離れた。アントニウスは彼女の後を追い、指揮官不在となったアントニウス艦隊は総崩れとなった(アクティウムの海戦)。

 アントニウスとクレオパトラはエジプトにたどり着いた。オクタヴィアヌスは二人を追撃し、アントニウスは自害した。数日後クレオパトラも自害し、二人は同じ墓に葬られた。カエサルとの間に産まれたカエサリオンも殺され、プトレマイオス朝は滅んだ。

 元老院はオクタヴィアヌスにアウグストゥス(Augustus:尊厳なる者)」という称号を送った。100年におよぶローマの内乱は終結し、帝政がスタートした。AD14年8月、アウグストゥスは76歳の生涯を終え、アウグストゥス廟に葬られた。カレンダーの8月には彼の名(August)がつけられた。
 彼の治世中のBC4年にはキリストが誕生している。

アウグストゥス廟
五賢帝時代へ
ティトゥスの凱旋門 (ローマ)

 アウグストゥスの次に即位したティベリウス帝は皇帝権を磐石なものとした。彼の時代にエルサレムでキリストの処刑が行われた。続いてカリグラ、クラウディウス、ネロが皇帝についた。クラウディウスはブーディカの乱などのケルト人の反乱を抑えて、本格的にイギリスに侵攻した。第5代皇帝ネロは政治・芸術面では優れていたが、近親者やキリスト教徒を迫害したため暴君といわれている。

 ネロは元老院によって自殺に追い込まれ、アウグストゥスの血筋は途絶えた。その後、血縁関係のない皇帝が乱立し国内は乱れたが、69年に60才のヴェスパシアヌスが皇帝に就いて帝国は再び発展した。彼は息子のティトゥスをエルサレムに派遣してユダヤ人の反乱を鎮圧した。これを記念してティトゥスの凱旋門が建てられた。

 ヴェスパシアヌスの次に名君ティトゥス(Titus)が即位した。しかし、ローマの大火やヴェスヴィオス火山の噴火(ポンペイの遺跡)、疫病の流行などの災害が続いた。彼は被災した人々の救援を惜しまなかった。続いてティトゥスの弟ドミティアヌスが即位したが残虐な政治を行ったため、元老院に暗殺された。その後、ローマ帝国は、最盛期の五賢帝時代を迎える。

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【参考資料】
ローマ人の物語  塩野七生 新潮文庫