ローマ帝国 (共和制〜帝政)

混乱の時代

 ローマはカルタゴを滅ぼしギリシアやシリアに勢力を拡げるが、内外に多くの問題を抱えた混乱の時代を迎えた。


ヌミディア王国の遺跡(チュニジア:ブラレジア)


ポントス王国

BC139
BC104
シチリア奴隷蜂起
シチリアで2回にわたって発生した大規模な奴隷蜂起
BC134〜121
グラックス兄弟の改革

 兄ティベリウス・グラックスは、国力を回復するため自作農を増やす農地改革を提案、これに元老院が反対し暗殺された。兄の意志を継いだ弟のガイウス・グラックスも 元老院の反対で暗殺され改革は失敗した。グラックス兄弟はスキピオの娘コルネリアの息子達である。

BC112〜105
ユグルタ戦役
ヌミディア王国の後継者争いが発生し、ヌミディア王ユグルタと戦い破った。
BC91〜89
同盟市戦争
ローマと同盟を結んでいた都市が市民権を求めて起こした反乱。BC89年、ローマ市民権を与えて終結した。
BC88〜63
 小アジアのポントス王ミトリダテス6世(Mithridates)が3回にわたって起こした反乱。最初はスッラが率いるローマ軍に敗れる。続いてルクルスと戦い、最後はポンペイウスに鎮圧された。
BC88〜
マリウスとスッラの対立

カエサルの叔父マリウスは、オリエントに遠征したスッラの留守中に権力を奪取し反マリウス派を粛清した。
スッラはオリエントを平定後イタリアに戻り、ローマに進軍した。 この軍にポンペイウスクラッススが参加し、今度はマリウス派が粛清された。 この時、セルトリウスはスペインに、18歳のカエサルは小アジアに逃げた。

BC80〜72
セルトリウス戦役
スッラに追われたセルトリウスがスペインで反乱を起こす。ポンペイウスが鎮圧。
BC73〜71
ローマを揺るがす奴隷の大反乱。クラッススが鎮圧、ポンペイウスが残党を全滅させた。
ポンペイウス
(Pompeius)

古代ローマ遺跡フォロ・ロマーノ

 BC78年にスッラが亡くなると反スッラ派を抑えて権力を握ったのがポンペイウスである。彼はスペインに遠征し、セルトリウス率いる反乱軍を4年かかって平定した。この戦役中に彼の名にちなんで作られたバスク地方の町が、牛追い祭り(サンフェルミン祭り)で有名なパンプローナ(Pamplona)である。

 スペインから帰還したポンペイウスは、直ちにスパルタクスの乱の残党を掃討し、BC70年にクラッススとともに執政官に就任した。ポンペウスの活躍は続き、BC67年には地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐する。翌年には小アジアに遠征し、ミトリダテスを破ってアルメニアを保護国とした。BC64年にはシリアに進軍しセレコウス朝シリアをローマの属州とした。続いてユダヤへ軍を進めてエルサレムを包囲、3ヵ月後に陥落させた。この一連の遠征によって、ローマの領土は黒海沿岸からカフカス、シリア・パレスティナまで広がった。

 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、元老院がこれに反発し彼から軍事権を取り上げた。この時、ポンペイウスに手をさしのべたのが41歳のカエサルで、クラッススと共に元老院を抑え、3人で第1回三頭政治を始めた(BC60年)。ポンペイウスはカエサルの娘ユリアを新しい妻として迎えた。

ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)

英語読み:ジュリアス・シーザー


カエサル像:ナポリ国立考古学博物館場

【カエサル】 ローマ皇帝の称号になる。ドイツ語のカイザーやロシア語のツァーリなど皇帝を示す言葉になった。

 スッラの死後ローマに帰還したカエサルは、政治に参画し力をつけていった。BC60年、民衆から絶大な人気があったカエサルは執政官に就任し、ポンペイウスやクラッススと三頭政治を始めた。
カエサルは、ガリア(フランス・ベルギー)に遠征した。ケルト人の一派であるガリア人は激しく抵抗し、戦いは7年におよんだ。しかし、アレシアの戦い(Alesia)でガリア軍を破り、敵将ウェルキンゲトリクス(Vercingetorix)を捕虜にした。この時書いたのがガリア戦記である。その後カエサルはドイツやイギリスにも遠征した。

ウェルキンゲトリクス像(クレルモン・フェラン

 クラッススがパルティアとの戦いで戦死したことにより三頭政治は崩壊、カエサルとポンペイウスの対立が始まった。 ポンペイウスは元老院と手を結び、カエサルの軍事権を剥奪し、ガリアからの帰還命令を出した。

 一人で帰れば命が危ない。軍団を連れて行けば反逆者となる。「賽は投げられた」、カエサルは軍団を率いてルビコン川を渡り、 反逆者となってローマへ進軍した。不意をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れた。BC48年、カエサルはポンペイウスを追撃し、 ギリシアのファルサルスの戦い(Pharsalus)で破った。 初めて敗北を喫したポンペイウスはエジプトに逃げた。

クレオパトラ

 

 

 

 

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クレオパトラの死(フィラデルフィア美術館)

 エジプトは、絶世の美女クレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が共同統治していた。クレオパトラはローマと同盟を結んでエジプトを存続させようと考えていたが、弟はそれに反対していた。そこにポンペイウスが逃げてきた。カエサルを恐れるエジプトは、ポンペイウスを殺害した。BC48年、ポンペイウスを追撃してきたカエサルがエジプトに入った。クレオパトラはカエサルを誘惑し、二人はクレオパトラと対立していた弟を倒した。エジプトに平和が訪れ、二人の間には息子カエサリオン(小カエサルの意味、最後のエジプト王)が生まれた。

 カエサルは、終身独裁官兼最高司令官(インペラトール:皇帝の語源)に就き、貧民の救済、属州政治の改革を行った。また、エジプトの太陽暦をもとに作成したユリウス暦を採用した。

 カエサルは元老院を無視して独裁政治を始め、共和主義者の反感を買った。BC44年、元老院の後押しを受けたブルートゥスはカエサルを刺した。カエサルは「ブルートゥス、お前もか・・・」と叫び絶命した。55歳だった。ブルートゥスはカエサルの愛人セルウィリア(Servilia)の息子でカエサルに可愛がられていた。この言葉はシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の中で描かれ有名となった。

 その時ローマに滞在していたクレオパトラは急ぎエジプトに戻った。

アウグストゥス
Augustus

アウグストゥス像:サラゴサ(スペイン)

 オクタヴィアヌスはBC63年にローマで生まれた。父は、元老院議員で彼が4歳の時に死亡、母はカエサルの妹ユリアの娘アティア(Atia)。BC46年、カエサルのスペイン遠征に従軍した。BC44年、パルティア遠征の司令官として、アルバニアで出陣準備中に、カエサルの暗殺を知る。ローマでは、カエサルの部下アントニウスレピドゥスが権力を握ったが、遺言によりオクタヴィアヌスが相続人となった。オクタウィアヌスとアントニウスはカエサルの仇であるブルトゥスやカッシウスを追い、ギリシアのフィリッピの戦いで破った。

 オクタヴィアヌスとアントニウス、レピドゥスの3人は第2回三頭政治を始めた。レピドゥスはシチリアをめぐる争いでオクタヴィアヌスと対立して失脚し、ローマは東半分をアントニウスが、西半分をオクタウィアヌスが支配する体制になった。

 シリア・エジプト方面を支配したアントニウスは、タルソス(トルコ)でクレオパトラと出会い夢中になった。エジプトに魂を奪われたアントニウスを、ローマ市民は見限った。起死回生を図るアントニウスは、パルティアに遠征するが惨敗、続くアルメニア遠征では勝利するが凱旋式をエジプトのアレクサンドリアで挙行し、益々ローマ市民の反感を買った。

アクティウムの海戦
アクティウムの海戦が行われた海
(ギリシアのプレヴェザの要塞にて)

 オクタウィアヌスは、アントニウス討伐を決断、エジプトに宣戦布告した。BC31年、アクティウム岬沖で両軍合わせて500隻以上の艦船による決戦が行われた。両軍の交戦が始まるとクレオパトラ艦隊が戦線離脱した。アントニウスは彼女の後を追い、指揮官不在となったアントニウス軍は総崩れとなった(アクティウムの海戦)。

 アントニウスとクレオパトラはエジプトにたどり着いた。オクタヴィアヌスは二人を追撃し、アントニウスは自害した。その10日後にクレオパトラも自害し、二人は同じ墓に葬られた。カエサルとの間に産まれたカエサリオンも殺され、プトレマイオス朝は滅んだ。

 元老院はオクタヴィアヌスにアウグストゥス(Augustus:尊厳なる者)」という称号を送った。100年におよぶ内乱は終り、帝政がスタートした。 

 AD14年8月、アウグストゥスは76歳の生涯を終え、アウグストゥス廟に葬られた。カレンダーの8月には彼の名(August)がつけられた。また、彼の治世中のBC4年にキリストが誕生している。


アウグストゥス廟(ローマ)
五賢帝時代へ
ティトゥスの凱旋門 (ローマ)

 アウグストゥスの次に即位したティベリウス帝は皇帝権を磐石なものとした。彼の時代にエルサレムでキリストの処刑が行われた。続いてカリグラ、クラウディウス、ネロが皇帝についた。クラウディウスはブーディカの乱などのケルト人の反乱を抑えて、本格的にイギリスに侵攻した。第5代皇帝ネロは政治・芸術面では優れていたが、近親者やキリスト教徒を迫害したため暴君といわれている。

 ネロは元老院によって自殺に追い込まれ、アウグストゥスの血筋は途絶えた。その後、血縁関係のない皇帝が乱立し国内は乱れたが、69年にユダヤ方面軍司令官ヴェスパシアヌスが皇帝に就いて帝国は再び発展する。

 続くティトゥス帝(Titus)はヴェスヴィオス火山の災害復旧を行った。また、66〜73年のエルサレムにおけるユダヤ人の反乱を鎮圧した。これを記念して建てられたのが今もローマに残るティトゥスの凱旋門である。

 ティトゥスの弟ドミティアヌスは元老院と対立し暗殺された。その後、ローマ帝国は、最盛期の五賢帝時代を迎える。

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【参考資料】
ローマ人の物語  塩野七生 新潮文庫