ディアドコイ(Diadochoi)の争い
帝国の分裂

 病に倒れたアレクサンドロス大王は後継者を決めず、「強い者が帝国を支配せよ」と言い残して死んだ(BC323年)。武将たちはバビロン会議を開き、とりあえず大王の異母兄をフィリッポス3世として即位させ、王妃ロクサネが男の子を産んだらその子を共同統治者にすることを決めた。

 この時からすでに武将たちの対立が始まっていた。長い間苦楽を共にしてきた戦友たちが、自分が後継者(ディアドコイ)であると主張して戦った。40年間続いた戦いでプトレマイオス以外の武将は命を落とし、大王ゆかりのフィリッポス3世、母のオリュンピアス、王妃ロクサネや彼女が産んだアレキサンドロス4世も殺された。扇のかなめが取れた大帝国は再び統一されることなく3つの王朝に分裂した。

 このヘレニズム三国は100年あまり同盟と抗争を繰り返した。その隙に西から勢力を伸ばしてきたローマ帝国に滅ぼされた。


ロードス島のリンドスにあるアクロポリス

アンティゴノス朝マケドニア(Antigonos)

 アンティゴノスは大王の死後、帝国の総司令官となり小アジアからシリア、イランに至る広大な地域を手に入れた。BC306年に王位に就いて帝国再統一を宣言するが他のディアドコイが反発、イプソスの戦いで敗れて戦死した。生き残った息子のデメトリオスはその後も戦い続けマケドニア王となった。しかしすぐに王位を追われセレウコスの捕虜となって獄死した。BC277年に孫のアンティゴノス2世がマケドニア王を奪還しアンティゴノス朝マケドニアを再興した。マケドニアはギリシアも支配したが、ギリシアはアテネやスパルタなどの独立した都市国家やペロポネソス半島の12の都市国家によるアカイア同盟などの勢力が乱立し不安定な状態が続いていた。

 やがてマケドニアはローマと3次にわたるマケドニア戦争を戦った。第一次戦争はカルタゴのハンニバルと同盟したマケドニアが戦いを仕掛けた。ローマはカンネの戦いの敗北で余力がなく、ギリシアの諸都市と結んで講和に持ち込んだ。第二次戦争はマケドニアの侵攻に悩むアテネ、ロードスなどの諸都市がローマに出兵を要請したことから始まり、マケドニアは敗れてギリシアから撤退した。第三次戦争はローマに服従していたマケドニアが反旗を翻して始まり、マケドニアは敗れて滅亡した(BC167年)。


第三次マケドニア戦争:ローマのアエミリウス(右)に降伏するマケドニア王(中央)
セレウコス朝シリア(Celeukos)

 セレウコスは大王の死後バビロンの太守に任命されたがアンティゴノスに追われエジプトのプトレマイオスを頼った。その後アンティゴノスがイプソスの戦いで戦死するとバビロンに復帰し、BC312年にセレウコス朝を開いた。セレウコスは西に勢力を拡大し、アレクサンドロス大王領の大部分を支配した。首都はアンティオキア(現在のトルコのアンタクヤ)。その後彼はマケドニアに遠征するが、同行していたプトレマイオスの息子に暗殺された。

 セレウコス朝は国土が広大ですぐに分裂が始まった。BC300年頃に、マウリヤ朝チャンドラグプタにインド西部を奪われ、小アジアのベルガモン、黒海沿岸のビテュニアやポントス、内陸のカッパドキアが離反した。BC255年には中央アジアに移住したギリシア人が独立してバクトリア(Bactoria)を建国、BC248頃には遊牧イラン人がパルティアを建国した。

 セレウコス朝は東から迫るパルティアに次々と領土を奪われ衰退し、BC64年にローマのポンペイウスによって滅ぼされた。


ベルガモン王国の遺跡(トルコのベルガマ)

プトレマイオス朝エジプト(Ptolemaios)

 

 

 

 

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 プトレマイオスは若い頃はアレクサンドロスやセレウコスなどと一緒にアリストテレスに学問を学んだ学友仲間だった。BC306年にアンティゴノスが王位に就くと、エジプト総督だったプトレマイオスもプトレマイオス朝を開いた(BC305年)。この王朝はヘレニズム三国の中で最も長く繁栄したが、女王クレオパトラ7世の死によってローマの支配下に入った(BC30年)。クレオパトラは、プトレマイオスの子孫でギリシア人である。

 プトレマイオスは、アレクサンドリアにムセイオン(博物館)や図書館を建てて学問を奨励した。また、港に世界の七不思議の一つであるアレクサンドリアの大灯台を建設した。この灯台は796年の地震で半壊し、14世紀の地震で完全に崩壊した。灯台跡地にマムルーク朝のスルタンカーイトバーイカーイト・ベイ要塞を建設した(1480年頃)。アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心地となった。

【ムセイオン(Museion)】文芸の女神ムーサの神殿という意味。博物館(museum)の語源。ウーラノスガイアの娘ムネモシュネゼウスの間に産まれた9人の娘たちがムーサ(英語名:ミューズ)である。


カーイト・ベイ要塞(エジプトのアレキサンドリア)

ロードス島の巨像

 アンティゴノスがプトレマイオスと戦った時、プトレマイオスを支援するロードス島を息子のデメトリオスに攻撃させた。しかしロードスの守備隊は善戦しその攻撃をはね返した。ロードスの人々はこの勝利を祝い、太陽神ヘリオスに感謝するためヘリオスをかたどった巨大な彫像を作った。

 この像は全長は34m、台座まで含めると50mになり、ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだった。ヘリオスは同じ太陽神のアポロンと同一視されるため、アポロンの巨像とも呼ばれる。世界の七不思議の一つ。

 BC226年、ロードスで地震が発生し巨像は倒壊した。巨像は800年間そのまま放置されたが、654年にムアーウィヤのイスラム軍がロードスを征服すると巨像はバラバラにして持ち去られた。


ロードスの巨象
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【参考資料】
ギリシア人の物語V 新潮社 塩野七生