アレクサンドロスの遠征
マケドニア

 ヘレニズムとは、ヘレネス(ギリシア人)に由来することばで、ギリシア風という意味である。ヘレニズム文化は、アレクサンドロスの遠征によって東方に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化である。

 ペロポネソス戦争後、ポリス社会が衰退すると、ギリシア北方のマケドニアが台頭してきた。マケドニアは、スパルタと同じドーリア人の国で、ギリシア人は野蛮人と馬鹿にしていた。


アレクサンドロスが生まれた町ペラ(テッサロニキ)

フィリッポス2世
(Philippos)

 BC359年、フィリッポス2世が即位した。彼は国政を改革し軍備を拡充して、弱小国だったマケドニアを強国に成長させた。その勢いはギリシア本土を脅かした。アテネは、テーベと同盟を結んでこれに対抗した。

 BC338年、フィリッポス2世は、2千の騎兵と3万の歩兵を率いてギリシアに侵攻し、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破った。翌年には多くのポリスを集めたヘラス同盟(コリントス同盟)を結成し、スパルタを除く全ギリシアの支配者となった。

 その後、対ペルシア戦争を発動し、小アジアに第一陣を派遣した。しかし、娘の結婚式の席で部下に暗殺され、遠征は頓挫した。


フィリッポス2世(テッサロニキ)

アレクサンドロス(alexandros)

英語ではアレキサンダー大王

 

 

 

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 アレクサンドロスは、BC356年にマケドニアのペラで生まれた。父はフィリッ ポス2世、母はオリュンピアス。12歳の頃から哲学者アリストテレスに学び、ギリシアやインドに関する知識を身につけた。17歳で初陣、翌年にはカイロネイアの戦いで活躍する。20歳の時、父フィリッポスが暗殺される。

 後を継いだばかりのアレクサンドロスに対して、テーベを中心としたポリスが反乱を起こした。アレクサンドロスはこれをすぐに鎮圧した。テーベは徹底的に破壊され市民は奴隷にされた。

 この戦いでギリシアは再統一され、父の意思を継いでペルシア遠征に出発する。


馬に乗るアレクサンドロス(テッサロニキ)
ペルシア遠征

 BC334年、アレクサンドロスはヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)を越えてペルシアに侵入、グラニコス河でペルシア軍とぶつかった。アレクサンドロスは敵前渡河を敢行して勝利を収めた。続いて、サルデス、ミレトスなどの都市を占領し、瞬く間に小アジアを制圧した。

 翌BC333年、地中海東部のイッソスにおいて、ペルシャのダレイオス3世(ダリウス3世)と対決した。アレクサンドロス軍は数万人、ペルシア軍は10万ともそれ以上ともいわれている。ペルシャの騎兵隊は山と海に挟まれた狭いイッソスでは、自由に展開できず敗退した。

 アレクサンドロスは、ペルシア軍を追わずに南進した。まず、ペルシア艦隊の拠点であるフェニキアの都市を制圧し、続いてエジプトに進軍し制圧した。ペルシアの圧政に苦しんでいたエジプト人はアレクサンドロスを歓迎し、ファラオとして迎えた。エジプト滞在中に、ナイル河口の町アレクサンドリアを建設した。そしてペルシア本国に向けて進軍を開始した。


「イッソスの戦い」を描いたモザイク画(ナポリ考古学博物館)
ペルシア帝国滅亡

 アレクサンドロスは、騎兵7千、歩兵4万を率いてペルシアの中心部に現れた。ダレイオス3世率いる10万のペルシア軍は、ティグリス川上流のガウガメラで迎え撃った。ペルシア軍は数的には有利だったが、兵の練度や装備の劣る寄せ集めの軍隊だった。アレクサンドロスは騎兵の大半を率いて突撃し、ペルシア軍を打ち負かした。これがアルベラの戦いまたはガウガメラの戦い(Battle of Gaugamela)である。

 アレクサンドロスはバビロンやスーサ(Susa)に進軍した。更に、ペルシア帝国の首都ペルセポリスを占領し破壊した。ダレイオス3世は逃亡したが、家臣であるバクトリア総督ベッソスに殺され、ペルシア帝国は滅亡した。アレクサンドロスはダレイオスの遺体を手厚く葬った。

 アレクサンドロスは中央アジア方面へ侵攻した。サマルカンド付近では残存ペルシア軍の激しい抵抗を受けた。中央アジアを制圧したアレクサンドロスは、この地方の有力者の娘ロクサネを妃に迎えた。

【ペルセポリス】 BC6世紀、ダレイオス1世が築いた王宮


ペルセポリスのクセルクセス門
更に東へ

 BC327年、アレクサンドロスは大軍を率いてヒンドゥークシ山脈を越え、インダス川を渡りインドのパンジャブ地方へ進出した。さらに東進し、反抗する部族を鎮圧しながらインド中央部に向かおうとした。しかし、すでに遠征距離は1万8千kmにおよび、兵は疲れきっていた。望郷の念にかられた部下はこれ以上の進軍を拒み、やむなくスーサに引き返した。

【スーサ Susa】 イランの西南部の都市、現シューシュタル(Shushtar)。BC3000年〜BC700年の間イランに栄えたエラム王国の首都だったが、BC644年にアッシリアによって破壊された。
 ペルシアのダレイオス1世はここに王宮を置き、再び栄えたが、ペルシャ帝国崩壊後は忘れ去られた。
 1901年、フランスの考古学調査隊はスーサの発掘調査中に、「目には目で、歯には歯で」で有名なハンムラビ法典を発見した。法典は現在ルーブル美術館に保管されている。

スーサの遺跡
奥はフランスの調査隊が建てた建物

アレクサンドロス (イスタンブール考古学博物館)
ヘレニズム文化
(Hellenism)

 アレクサンドロスは、諸民族の文化を尊重し、ペルシアの行政組織や儀礼を継承した。また自身の名を冠したアレクサンドリア市を70余り建設し、ギリシア人の東方移住を促進した。この結果、ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化が生まれた。また、貨幣経済が普及し、東西貿易も活発となった。

 BC324年、スーサにおいてマケドニア人とペルシア女性との集団結婚式が行われた。大王自らダレイオス3世の娘スタテイラ(Stateira)と結婚し、マケドニアの貴族80人にペルシアの高貴な女性を割り当てた。

 BC323年6月、アレクサンドロスは熱病にかかりその人生を終えた。32歳だった。大王の死後、彼にゆかりの者はことごとく殺された。彼の遺体は、部下のプトレマイオスによってエジプトのアレクサンドリアに葬られた。そして、後継者争い(ディアドコイの争い)が起こり、帝国は分裂した。


ガルニ神殿(アルメニアに残るヘレニズム建築)
 

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 ディアドコイの争い→  

【参考資料】