バルト3国
バルト3国(Baltic states)

 バルト3国は、バルト海の東岸にあるエストニア、ラトビア、リトアニアの3国である。3国とも18世紀以降ロシアに支配されたが、第一次大戦中にロシア革命が起き、3国とも独立した(1919年)。しかし、1939年にドイツのヒトラーとソ連のスターリンが独ソ不可侵条約を結び、両国によるポーランドの分割とソ連のバルト3国併合を決めた秘密議定書が締結された。翌月に第二次世界大戦が始り、ドイツとソ連がポーランドを分割し、さらにソ連はバルト3国を併合した。

 1985年、ソ連のゴルバチョフ政権はペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進し、秘密議定書の存在を認めた。しかし、3国は併合されたのではなく、自主的にソビエト連邦に加盟したと主張した。

 ベルリンの壁崩壊(1989年)に象徴される東欧の民主化の波はバルト3国にも波及した。秘密議定書の締結から50年目の1989年、ソ連からの独立を求める3国の人々200万人は、リトアニアのヴィリニュスからラトヴィアのリガを経由してエストニアのタリンに至る600kmにわたって手と手を握り、人間の鎖(Baltic Way)を作った。このデモンストレーションによって独立の気運が一気に高まり、1991年に3国は独立を回復した。現在、3国とも北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)に加盟している。

リヴォニア帯剣騎士団(Knights of the Livonian Sword)

 

 

 

 

 

 

 

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騎士団を創設したアルベルト像
(リガ大聖堂)

 リヴォニア(Livonia)は、ラトビア北部からエストニア南部にかけての地域で、12世紀頃はキリスト教化されていない異教の地だった。ローマ教皇インノケンティウス3世北方十字軍の派遣を呼びかけた。それに応じたドイツ人のアルベルトは、兵士1500人を率いてラトヴィアのリガを制圧し、リヴォニア帯剣騎士団を設立した(1201年)。

 騎士団はリヴォニア全域を征服し、デンマークの支援を得てエストニア北部を制圧した。続いてリトアニアに進出したが、ザウレの戦いでリトアニア軍に惨敗した(1236年)。壊滅的な打撃を受けた騎士団はドイツ騎士団に併合され、その一分団のリヴォニア騎士団となった。

北方十字軍(バルト十字軍)】デンマーク、スウェーデン、ポーランドなどのカトリック教国、あるいはリヴォニア帯剣騎士団やドイツ騎士団によるバルト海沿岸の異教徒を征服する十字軍の総称

【シャウレイの十字架の丘】
古戦場ザウレ(現在のシャウレイ)の近くに十字架の丘という観光地がある。これはソ連に抵抗して処刑されたリトアニア人を追悼するため、人々が十字架を持ち寄って建てた丘である。ソ連軍は何度か十字架を撤去したが、すぐに人々は十字架を建てなおした。
エストニアとラトビア
トームペア城(タリン エストニア)

 1219年、デンマークがエストニアに進駐し、タリンにトームペア城(Toompea Castle)を建設した。デンマークの支配は1346年まで続いたが、タリンやナルヴァなどの町をドイツ騎士団に売却して撤退した。この頃から多くのドイツ人がリヴォニアに入植してきた。タリンやナルヴァ、リガなどの町はハンザ同盟に加入し、自治権を得て多くの富を蓄えた。ドイツ人は経済的に強い影響力を持ち、彼らはバルト・ドイツ人と呼ばれた。

 1410年、ドイツ騎士団はタンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア軍に惨敗し騎士団は消滅した。その分団のリヴォニア騎士団は、その後もリヴォニア地方を支配していた。1558年にバルト海への進出をめざすロシア(モスクワ大公国)のイヴァン4世はリヴォニアに攻め込みリヴォニア戦争が始まった。この戦争は25年続いた。当初はロシアが有利に戦いを進め、リヴォニア騎士団は解散に追い込まれた(1561年)。

 ロシアの侵略に対してリトアニアは同盟関係にあるポーランドに支援を要請し、またポーランドと姻戚関係にあるスウェーデンも参戦してロシアと戦った。苦境に陥ったロシア軍は撤退し、スウェーデンがバルト海の覇者となった。

リトアニア
ヨガイラ像(リトアニア ヴィリニュス大聖堂 St. Casimir's chapel. Statues of the Grand Dukes of Lithuania and Polish kings)

 エストニア人とラトビア人は20世紀になるまで国家を持たなかったが、リトアニアは1253年に指導者ミンダウガスが部族を統一してリトアニア人の国家を持った。14世紀に英雄ゲディミナス(Gediminas)が即位し、ウクライナやベラルーシを傘下に収め領土を拡大した。彼は首都ヴィリニュス(Vilnius)を建設し、リトアニア大公国の全盛期を築いた。

 非キリスト教国のリトアニアは、建国以来ずっと異教徒討伐に執念を燃やすドイツ騎士団と戦っていた。騎士団の侵略に耐えかねたリトアニアは、ゲディミナスの孫のヨガイラ(Jogaila)の時代に、キリスト教を受け入れ、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚してポーランド王になることを約束した。この約束はベラルーシのクレヴァ(ポーランド語でクレヴォ Krewo)の町で調印されクレヴォ合同といわれる(1386年)。

 こうしてリトアニアとポーランドは同君連合を結成し、リトアニア・ポーランド連合王国ができた。ヨガイラはリトアニア大公であり、ポーランド王ヴワディスワフ2世となった。連合王国は、タンネンベルクの戦いで宿敵のドイツ騎士団を粉砕した。

ルブリン合同と大北方戦争

 

 

 

 

 

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リトアニアの首都ヴィリニュス(Vilnius)

 リヴォニア戦争でロシアの侵略を撃退したリトアニア大公国とポーランド王国は、ロシアの脅威に備えて一つの国ポーランド・リトアニア共和国となった(1569年)。この決定はポーランドの町ルブリンで行われ、これをルブリン合同という。ポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパ最大規模の国家となり、その繁栄は200年以上続いた。

 スウェーデンの勢力拡大を危惧するロシア、ポーランド、デンマークは、同盟を結んで大北方戦争を始めた(1700~1721年)。デンマークはドイツの北にあるスウェーデンの同盟国シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国を、ポーランドはリヴォニアのリガを、ロシアはエストニアを攻撃した。

 スウェーデン王カール12世は反撃し、ナルヴァの戦いでロシアに壊滅的な打撃を与えた。また、デンマークやポーランドに対しても善戦し和睦した。1707年、スウェーデンはロシア本土へ攻め入った。ロシアのピョートル大帝は軍を立て直して焦土作戦を展開し、スウェーデン軍がウクライナに向かったところを急襲して打ち破った(ポルタヴァの戦い)。

ロシア(ソ連)の支配
ラトヴィアの首都リガ

 大北方戦争でポーランド・リトアニア共和国はスウェーデンに蹂躙され、そのスウェーデンはロシアに敗れて没落した。戦争後、エストニアやラトヴィアはロシアに併合された。ポーランド・リトアニア共和国はロシア、プロイセン、オーストリアによるポーランド分割で国は消滅し、リトアニアもロシアに併合されてしまった(1795年)。

 1904年に日露戦争が始まるとバルト3国からも多くの兵士が出征して日本軍と戦った。ラトビアのリエパーヤからはバルチック艦隊が日本に向けて出撃していった。日露戦争で大国ロシアが小国日本に敗れたというニュースは、ロシアの圧政に苦しんでいたバルト3国の若者を大いに勇気づけた。

 第一次大戦でバルト3国はドイツに占領されたが、ロシア革命が起きて独立できた(1919年)。しかし、第二次世界大戦で再びソ連に併合され、多くの指導者が処刑された。3国はソ連の統治時代を暗黒時代と呼んでいる。そして1991年、ソ連の崩壊によって3国は独立した。

杉原千畝


カウナスにある杉原記念館(旧日本国領事館)

 杉原千畝は1939年8月にカウナスの日本領事館に着任した。数日後、第二次世界大戦が始まり、ドイツとソ連はポーランドに攻め込んだ。ポーランドのユダヤ人たちはリトアニアに逃れたが、1940年6月にソ連軍がリトアニアに進駐してきた。追い詰められた彼らの生きる道は、シベリア鉄道で極東のウラジオストクに行き、そこから船で敦賀(福井県)に渡り、神戸からアメリカや上海に向かうことだった。そのためには最終目的地のビザとソ連および日本の通過ビザが必要だった。

 1940年7月、彼らは日本の通過ビザ(命のビザ)を求めて日本領事館に殺到した。日本の外務省はビザの発給を許可しなかったが、杉原はそれを無視して発給し始めた。1か月あまり、寝る間も惜しんで発給し続け、2,139枚のビザを発行した。助かった命は約6,000人といわれている(1家族3人)。

 戦後日本に戻ってきた杉原は、外務省から解雇された。1986年に死去、2000年に河野洋平外務大臣が遺族に外務省の非礼を謝罪した。

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【参考資料】
物語 バルト三国の歴史 志摩園子 中公新書
リトアニアと杉原千畝 重枝豊英 図書刊行会