帝国主義 (Imperialism) |
産業革命によって高度な工業技術と強大な軍事力を手にしたヨーロッパ諸国は、19〜20世紀にかけて地球上のほとんどの国を植民地化した。そして、世界中の富をかき集め、他の民族を圧倒した。彼らは自分達の文明や宗教(キリスト教)が最も優れていると信じ、その価値観を植民地に押し付けた。ヨーロッパの脅威に対して独立を保ち、その文明を積極的に取り入れて発展した唯一の国が日本だった。 帝国主義とは自国の利益のために軍事力で他の国を侵略する政策で、主として植民地獲得を目指した国家のことを指している。早くから広大な植民地を手に入れたのはイギリスとフランスで、植民地獲得競争に遅れて参入したのが、ドイツ、アメリカ、ロシア、イタリア、ベルギーだった。そして、富国強兵を押し進めた日本も植民地獲得競争に加わった。これらの8カ国を帝国主義列強という。 20世紀に帝国主義列強の支配を受けなかった国は、明治維新を達成した日本、イタリアの侵略を阻止したエチオピア、外交手腕でイギリスとフランスの侵略を阻止したタイの3国だけだった。清やオスマン帝国も形式的には独立していたが、列強の侵略に苦しんでいた。 |
ムンバイのインド門(イギリスの植民地支配の象徴) インド独立時に最後のイギリス軍が撤退していった門 |
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アフリカ侵略 |
最初にアフリカに進出したのは大航海時代を切り開いたポルトガルとスペインだった。彼らは沿岸部に港町を建設し、象牙や奴隷の貿易を行った。18世紀末になると暗黒大陸と呼ばれたアフリカ奥地にイギリスのリヴィングストンやスタンリーが探検を行い、進出の足掛かりを作った。 19世紀になると、イギリスとフランスはオスマン帝国が支配する北アフリカに進出した。フランスのレセップスはエジプトにスエズ運河会社を設立し、1869年にスエズ運河を完成させた。イギリスは運河建設に反対したが、運河が開通すると通過する船の8割がイギリス船籍だった。エジプトの財政悪化に伴い、イギリスはスエズ運河会社の株を買い取り、運河の治安を守るため出兵し、1882年にはエジプトを保護国化した。 イギリスは南アフリカのケープ植民地とエジプトを結ぶ大陸縦断政策をとり、フランスはモロッコからサハラ砂漠を越えて紅海、インド洋にいたる大陸横断政策をとって植民地を拡大した。 |
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アフリカ分割 |
ベルリン会議後ドイツは、タンザニアをはじめ、カメルーン、トーゴランド、ナミビアを植民地にした。イタリアはオスマントルコからリビアを奪い(1912年)、アフリカはリベリアとエチオピア以外のすべての国がヨーロッパ列強の植民地となった。エジプトは1922年に独立したが、イギリスが支配していた。
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ビスマルクがケーキ(アフリカ)を分割して列強に配っているフランスの風刺画 |
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ボーア戦争 | 1652年、オランダ東インド会社はアジア貿易の中継地としてケープタウン(Cape Town)を建設した。多くのオランダ人が入植し、彼らの子孫はボーア人(Boers)あるいはブール人、アフリカーナと呼ばれた。彼らは広大な農園を持ち、多くの奴隷を使っていた。 1795年にオランダ本国がフランス革命軍に占領されると、イギリスはオランダの植民地のセイロンやケープ植民地を攻略した。ケープ植民地のボーア人たちはイギリスの支配を嫌い、幌馬車を連ねて北部に移住しナタール共和国を建設した(グレート・トレック:Great Trek 1835年)。3年後、イギリスはナタール共和国を攻め滅ぼした。 ボーア人たちはさらに奥地に逃れてトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国した。イギリスは両国を承認した。ところがそこで金鉱やダイヤモンドが見つかると、再びイギリス軍が侵攻した(ボーア戦争 Boer War:1880〜1902)。ボーア軍は最新のドイツ製武器を装備してイギリス軍を苦しめた。しかし、イギリスは45万の兵力を投入して制圧した。そして、ケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジの4州を統合したイギリス自治領南アフリカ連邦ができた(1910年)。首都はプレトリア。 この戦争中、中国で義和団の乱が起きたが、アジアに目を向ける余裕のないイギリスは、日本と日英同盟を結んでロシアをけん制した。また、第2次世界大戦時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルもボーア戦争に従軍している。 |
イギリス軍と戦うボーア兵 |
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レオポルド2世 | 新興国ベルギーの国王レオポルド2世は植民地獲得に意欲を燃やし、列強が進出していないコンゴに目を付けた。1879年から1883年にかけて探検隊を派遣し、先住民と貿易協定を締結した。この動きにポルトガルやイギリスは反対するが、ドイツやフランスはベルギーを支援した。1884年のベルリン会議でコンゴはベルギー王の私有地と認められた。 当初は私財を投じて鉄道を敷設したり、奴隷狩りから黒人を守るなどの政治を行った。やがて、天然ゴムで利益を上げるため先住民を酷使し、コンゴの人口は当初の3000万人から900万人にまで減少したといわれている。こうした残虐行為はイギリスやアメリカから批判され、1908年にコンゴは国王の私有地から国家に委譲された(ベルギー領コンゴ)。 コンゴは1960年にコンゴ共和国としてベルギーから独立した。しかし、内乱が始まり(コンゴ動乱)、1971年に革命政権はザイール共和国を樹立した。その後、民主化要求が高まり再度の内乱を経て、コンゴ民主共和国となり現在に至っている。 |
レオポルド2世に締めあげられるコンゴ人 |
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アジア分割 |
最初にアジアに進出してきたのはポルトガルだった。アフリカ南端の喜望峰を回ってインドに向かう航路を開拓し、1510年にはインドのゴアを、翌年にはマレーシアのマラッカを占領した。一方、スペインはメキシコから太平洋を越えてアジアに進出し、1529年にフィリピンを領有した(皇太子フィリップに由来)。米西戦争後フィリピンはアメリカの植民地になった。 オランダは、1602年に東インド会社を設立して海洋進出を始めた。ジャワ島のジャカルタを占領し、ポルトガルからマラッカやセイロンを奪い、イギリスを東南アジアから締め出して香辛料貿易を独占した(アンボイナ事件)。しかし、1795年に本国がフランス革命軍に占領されるとオランダ東インド会社は解散、植民地はフランスとイギリスに接収された。ナポレオンの没落後、インドネシアはオランダに返還された。 イギリスはインド全土を支配し、インド大反乱後の1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国を作った。さらに、マレーシアやミャンマー(ビルマ)にも進出した。フランスは1858年にインドシナ半島に進出し、ベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化した(仏領インドシナ)。 |
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タイは東から迫るフランスと西から迫るイギリスの緩衝国家として独立を保った。日本は日清戦争後に台湾を領有し、1910年には朝鮮を植民地化した。 |
【参考資料】 |