概要 | 日露戦争は満州や朝鮮の権益をめぐって日本とロシアが戦った戦争である。戦いは満洲南部と日本海で行われた。日本は戦いを有利に進め、アメリカの仲介で講和しポーツマス条約を結んだ。その結果、南樺太は日本領となり、ロシアの租借地があった満州は日本が租借権を得た。
日清戦争も冒険だったが、日露戦争はそれとは比較にならない大冒険だった。国力を超えた無理な戦争は開戦も終戦も外国が頼りだった。戦費は日清戦争は2.2億だったが、日露戦争では5億円と見積もった。児玉源太郎はこれでは少なすぎると8億に増額したが、実際にかかった費用は20億円だった。その内の12億は高橋是清らが米英で苦労して調達した外債だった。 日本は三国干渉の屈辱を晴らすため、臥薪嘗胆を国民に説いて増税し大規模な軍備増強に着手した。陸軍は倍増の12個師団、海軍は戦艦6隻・巡洋艦6隻からなる「6・6艦隊」を計画した。また、製鉄所や鉄道、発電所など産業基盤整備の費用も必要で総額7.8億円が投入された。当時の国家予算は8,500万で、軍事費の割合は1896年からの10年間で平均42%に達し、日清戦争で得た賠償金も軍拡に消えていった。戦争に反対した幸徳秋水は、無理を重ねて大国を目指す日本の姿を「空威張り的飴細工的帝国主義」と批判した。 |
イギリスに背中を押されてロシアと闘う日本、 背後で見守っているのはアメリカ(ビゴーの風刺画) https://teachme.jp/contents/6824 |
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閔妃暗殺 ( |
日本は日清戦争の勝利により朝鮮から清の勢力を駆逐した。しかし、戦争で国を荒らされた朝鮮では反日感情が高まり、三国干渉を主導したロシアが勢力を伸ばしてきた。日本を排除してロシアを頼る親露派の中心人物が閔妃(明成皇后)だった。
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事件後、反日感情は更に高まり、各地で反日武装闘争が起きた。その隙に国王と政府要人はロシア公使館に逃げ込み、親露内閣を樹立した。これを露館播遷という(1896年2月)。日本の傀儡政権の総理は惨殺され、閣僚は罷免された。事態収拾のため派遣された小村寿太郎は「ロシアに天子を奪われて万事休す」と嘆いた。 1年後に国王は王宮に戻り、1897年10月に国号を大韓帝国と改めた。この帝国は日本の韓国併合まで存続した(1910年)。 【閔妃を斬った刀】 福岡市の櫛田神社には閔妃を斬った刀が奉納されているという。韓国の市民団体はこの刀を、韓国に渡すか処分するよう要求している。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐」と刻まれている。三浦は閔妃を「女狐」と呼び、暗殺を「狐狩り」と呼んでいた。 |
櫛田神社 |
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義和団の乱 (北清事変) |
今度は中国で大事件が発生した。義和団の乱である。義和団は元々山東省の農民の自衛組織だったが、増加するキリスト教徒に反発して武装闘争を始めた。中国では列強の進出とともに多くの宣教師が中国にやって来た。彼らは優遇されたため、その庇護を受けようと多くの民衆が信者になった。宣教師や信者達は次第に横暴になり、一般民衆との紛争が頻発した。 1897年、義和団は教会を襲撃しドイツ人宣教師2人を殺害した。ドイツ帝国はこの事件を口実に出兵し、義和団を蹴散らして膠州湾を租借した。山東省を追い出された義和団は失業者や難民を吸収して勢力を拡大し、北京の外国公使館区域を包囲した。この区域にいた外国人925名と中国人キリスト教徒3000名は籠城した。この籠城は55日間続いた。 当初、清朝は義和団を弾圧していた。しかし、欧米の勝手な振る舞いを苦々しく思っていたため、「扶清滅洋」を掲げる義和団を愛国の義兵と持ち上げて排外運動を支援し、列強に宣戦布告した。これに対し、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシアと日本の8ヶ国が出兵した。総勢32,000の連合軍(日本は12,000名)は天津から北京に進軍した。義和団は敗れ、西太后は西安に逃れた。 連合軍の北京占領は1年間続き、その間貴重な文化財が掠奪された。翌年、北京議定書がかわされ、清朝は莫大な賠償金4億5000万両を支払うことで決着した。これは日清戦争の2倍強の賠償金で、清の国家予算の5年分に相当した。清は賠償金支払のため外国に国家財政を支配され、また外国軍の駐留を認めるなど半植民地の状態に陥った。 |
戦争の愚かさを詠んだ歌(与謝野鉄幹) |
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日露対立と日英同盟 |
ロシアはフランスから借り入れた資金を利用して清に2億円の借款を提供し、見返りとして満州での権益を要求した。まず、北部を大きく迂回するシベリア鉄道の短縮路線として東清鉄道の敷設権を獲得した。更にドイツが膠州湾を租借すると、日本が三国干渉で返還した旅順や大連を租借した。それに伴い、東清鉄道と旅順・大連を結ぶ東清鉄道南部支線の敷設権も獲得した。これらの鉄道はロシアと清の合弁会社によって運営された。 義和団の乱が起こると、ロシアは鉄道防衛を口実に10万の大軍を出動させ満州全域を占領し、乱が鎮圧されても満州から撤兵しなかった。また、朝鮮にも手を伸ばし、旅順・大連港とウラジオストクを結ぶ航路の中継地として馬山浦に基地建設を要求したり、鴨緑江沿岸の竜岩浦に森林伐採権を取得して砲台建設を始めようとした(竜岩浦事件:りゅうがんほ)。 このロシアの動きを日本とイギリスは警戒し、日英同盟の話が急浮上した。日本は日清戦争後に三国干渉を受けた経験から、国際情勢に対応するには欧米との協力関係が不可欠であると痛感していた。イギリスはロシアの南下政策に脅威を感じていたが、南アフリカでボーア戦争を戦っており、アジアに目を向ける余力がなかった。両国の利害が一致し、日本とイギリスは日英同盟を締結した(1902年)。 日本はロシアに対して、満州からの撤退と朝鮮における日本の権益を認めるよう要求した。しかし、ロシア政府はこの要求を無視し、2ヶ月後に拒否の回答を送ってきた。ロシアとの交渉が暗礁に乗り上げると、軍部はロシアが東アジアに兵力を集結する前に開戦すべきと主張した。マスコミもこれを支持し、開戦を煽って民衆の不満を戦争に誘導していった。政府は戦争の見通しも勝つ自信もないまま開戦を決意した。そして、2月6日に交渉の打ち切りをロシアに通告した。 |
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開戦 |
1904年2月8日、連合艦隊は二手にわかれて出動した。一隊は朝鮮の仁川上陸を援護し、港外にいたロシア艦船2隻を撃沈、もう一隊は旅順のロシア艦隊を攻撃した。ロシアは宣戦布告前に戦闘を始めたことを、「卑劣なる戦争」と激しく非難した。日本は最後通牒しているから問題ないとして、その2日後に宣戦布告した。 陸軍の第1軍は朝鮮半島に上陸し、鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。第2軍は遼東半島の塩大墺に上陸し、ロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は大規模な要塞ではなかったが、日本軍は4,000名の死傷者を出した。大本営は損害の大きさに驚愕した。 6月に第4軍が編成され、第1軍、第2軍を合わせた13万の日本軍は遼陽に進軍した。ロシアはこれを22万の兵力で迎え撃ち、8月24日から約10日間、遼陽会戦が戦われた。この戦いは両軍とも2万を超える死傷者を出す激しい戦いになった。ロシアの司令官クロパトキンは日本軍に包囲される前に奉天(瀋陽)に退却し、ロシア軍を壊滅させる計画は失敗した。 ロシア海軍はウラジオストクに巡洋艦隊が、旅順には旅順艦隊がいた。ウラジオストクの巡洋艦隊は積極的に出撃して日本の輸送船に大きな被害を与えていた。連合艦隊はその動きに手を焼いていたが、8月に蔚山沖(うるさん)でロシア艦隊を捕捉し打ち破った。旅順艦隊は旅順港に引きこもっていたが、その存在が海上輸送の大きな脅威となっていた。 |
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旅順攻略 |
海軍は旅順艦隊を無力化しようと旅順港封鎖作戦を敢行した。この作戦は海軍参謀秋山真之がアメリカ留学中に実際にキューバで見た米西戦争の封鎖作戦を参考にしている。それは老朽化した船で湾に突入し、自沈して湾口を閉塞するというもので、3回にわたって実施された。しかし、3回とも突入前に発見されて失敗した。2回目の封鎖作戦で戦死した広瀬中佐は日本初の「軍神」となった。 そこで急遽陸から攻撃する作戦が立てられ、第3軍が編成された。司令官には日清戦争で旅順を攻略した乃木希典が任命された。第3軍は6月に大連に上陸し旅順に迫った。旅順では44,000名のロシア兵と火砲436門が待ち受けていた。旅順艦隊のほとんどの艦艇は戦闘能力を失っていたが、日本軍はその事実を知らなかった。 第3軍は8月に第1回総攻撃を行った。しかし、集中砲火をあびて15,000人の死傷者を出して失敗した。9月と10月に行われた第2回総攻撃も失敗した。11月の第3回総攻撃も苦戦し敗退したが、攻略目標を203高地に変更し激戦の末に占領した。要塞の抵抗はその後も続いたが、翌年1月にロシアの司令官ステッセルは降伏を決意し、乃木と水師営(すいしえい)で会見した。旅順攻略で第三軍は13万の兵力を投入し、戦死者15,390名、負傷者43,914名、戦病者30,000名の大損害を出した。乃木の2人の息子も戦死した。 |
乃木は敗軍の将を見せ物にしないよう沿道に隊列を作ることを禁止し、ステッセルに帯剣を許した。報道陣にも会見の場の撮影を禁止し彼らの名誉を守った。乃木の対応は各国の報道陣を感激させた。ステッセルと乃木はお互いに健闘をたたえあい、会見はなごやかに行われた。 |
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奉天会戦 |
1905年2月、25万の日本軍はロシアと雌雄を決すべく奉天に向けて進軍した。この作戦には旅順を落とした第3軍も参加した。これをロシア軍は31万の兵力で迎え撃ち、奉天会戦が始まった。両軍とも一歩も譲らない大激戦が10日間にわたって繰り広げられた。日本軍はロシア軍を包囲して殲滅しようとしたが、それに気付いたロシア軍司令官クロパトキンはハルビン方面へ転進した。日本軍にはもはや追撃する戦力はなく、またもやロシア軍を殲滅させることができなかった。 この戦いで日本軍の死傷者は7万、ロシア軍は死傷者6万と2万の捕虜を出した。ロシア軍が撤退した3月9日は陸軍記念日となり、撤退したクロパトキンは罷免された。 |
奉天に入城する大山巌の絵葉書(wikipedia) |
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日本海海戦(Battle of Tsushima) |
1904年10月、バルチック艦隊はラトヴィアのリバウ(現リエパーヤ:Riepaja)を出航した。スエズ運河やイギリス植民地の港は日英同盟によって利用できず、喜望峰を回る苦しい航海になった。1905年5月27日、艦隊はようやく日本近海に到達した。午前2時、仮装巡洋艦信濃丸はバルチック艦隊を発見し、鎮海湾に待機する連合艦隊に「敵艦見ユ」と無線連絡した。連合艦隊は「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と大本営に打電した。最後の一文は参謀の秋山真之が加筆した。 連合艦隊が出動してから7時間後にバルチック艦隊を捕捉し、旗艦三笠は戦闘旗とZ旗を掲げた。Z旗には「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。連合艦隊は北東に進むバルチック艦隊とすれ違う形で航行し、距離8,000mで先頭の艦から敵前大回頭(Togo turn)を始めた。 最初に回頭した三笠は集中砲火を浴び40発近く被弾したが、回頭を終えると今度は三笠が優位な位置になった。連合艦隊は次々と回頭を行い、回頭を終えた艦から砲撃を始めた。この作戦でバルチック艦隊はほとんどの艦艇を失い、連合艦隊の一方的な勝利となった。海戦の行われた5月27日は海軍記念日になった。 |
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講和条約 ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth) |
奉天会戦後、日本の国力は限界に達しこれ以上戦争を続ける余力は残っていなかった。日本はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに和平の斡旋を申し入れ、アメリカのポーツマスで和平交渉が始まった。ロシアは「満州での小さな戦闘で敗れただけで、負けていない」と強硬姿勢だったが、相次ぐ敗北で厭戦気分が蔓延し、血の日曜日事件など革命を予感する事件も起こっていた。そして、バルチック艦隊の壊滅で戦争を継続することは困難となり、和平交渉のテーブルについた。 両国のねばり強い交渉が行われ、ロシアは満州と朝鮮から撤兵し、南満州鉄道や遼東半島(旅順や大連)の租借権を譲渡、樺太南部を日本に割譲することで妥結した(1905年9月5日)。しかし、連戦連勝に浮かれる国民は賠償金を取れなかったことに怒り、日比谷焼打事件などの暴動を起こした。群衆の怒りは講和を斡旋したアメリカにも向けられ、米国公使館が襲撃された。日本の国民は国が疲弊してこれ以上戦争を続けられないことを知らなかった。 セオドア・ルーズベルトは、和平交渉の貢献によりノーベル平和賞を受賞した。彼は親日家だったが、講和条約後の日本の動きに失望し、反日家になった。無理して始めた戦争だったが、終わらせるのも困難な道だった。 |
ポーツマス講和会議 |
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日露戦争の反響 |
日露戦争における日本の勝利は、有色人種の小国が白人の大国を破ったことで世界に衝撃を与えた。特にロシアの侵略に苦しんでいたトルコ、ポーランド、フィンランドの諸国や白人国家に植民地支配されていたアジアの民衆を熱狂させ勇気付けた。そして清の辛亥革命、オスマン帝国の青年トルコ革命、イランの立憲革命、インドのインド国民会議など各地で独立運動が始まった。列強諸国も日本の評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正が達成された。 ロシアの脅威がなくなった朝鮮では日本の影響が絶大となり、大韓帝国は日本の保護国となった。そして、1910年の日韓併合条約の締結によって日本に併合された。韓国の国名も元の朝鮮に戻った。 |
コサック騎兵と戦う日本の騎兵 |
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満州 |
講和条約締結後、日本はロシアから譲渡された東清鉄道南満州支線(長春−旅順)の経営のため南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。この鉄道は清とロシアが共同経営していたもので、日本が勝手に満鉄を設立したことに清は強く反発した。しかし、日本はまともに取り合わず、朝鮮と奉天を結ぶ路線も建設し始めた。また、鉄道を警備するために鉄道守備隊を常駐させ、これが関東軍に発展して張作霖爆殺事件や柳条湖事件を引き起こした。 1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊すると、日本が満州の利権を独占し満州国を建国した(1932年)。日本が第2次世界大戦で敗れて満州国が滅亡すると、ソ連が日本の残したインフラを持ち去り、旅順や大連の租借権を主張した。ソ連が満州を完全に中国に返還したのは1955年のことで、日露戦争から50年が過ぎていた。
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日露戦争には日清戦争の約4.5倍の110万人が動員された。戦死者は6.1倍の81,500人で、特に戦闘死者数は42.4倍の6万人にのぼった(日清戦争では病死者が多かった)。日本軍は開戦1年目から銃砲弾不足に悩まされ、ロシア軍に決定的な打撃を与えることができなかった。欧米列強はこの戦争から火力の重要性を再認識したが、銃砲弾が欠乏しても勝てた日本軍は、白兵主義に固執した。このことがその後の戦争で多くの悲劇を生み出した。 この戦争で日本軍は武士道精神に則り、敗者を紳士的に、戦争捕虜を人道的に扱った。特に愛媛県松山の収容所が有名で、ロシア兵は「マツヤマ、マツヤマ」と叫びながら投降してきたという。ロシア軍にはロシアに占領されたポーランドの兵士も多くいて士気は高くなかった。 |
【参考資料】 |