アメリカの歴史 その1
アメリカ大陸の発見

 約3万年〜1万年前の氷河期に、アジアからモンゴロイドが凍結したベーリング海を渡って北アメリカ大陸にやって来た。彼らインディアンは統一国家を作らず、部族毎に分かれて生活していた。10世紀の末には、ノルマン人(ヴァイキング)も北米に渡ったという記録もある。

 1492年、スペインのイサベル女王の命を受けたコロンブスが西インド諸島に到達し、アメリカ大陸の存在がヨーロッパに知れ渡った。スペインは金を求めて中南米に進出した。しかし、北米には手が回らずテキサスやフロリダあたりを植民地化するにとどまった。

 イギリスやフランス、オランダなどの新興国は、スペインに遅れて海外に進出した。イギリスは1497年にイタリア人ジョン・カボットを北米に派遣しニューイングランドの領有を宣言した。フランスは1525年にヴェラッツァーノ(Verrazzano)がアメリカ東海岸に、1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)がセントローレンス川を探検してカナダを領有した。

 アメリカ進出に積極的だったのはイギリスとフランスだった。イギリスはボストンを中心とするニューイングランドに、フランスはルイジアナに植民地を築いた(ルイジアナ:太陽王ルイ14世にちなんだ名前)。また、オランダはニューヨーク(当時の名前はニューアムステルダム)やニュージャージーに、スウェーデンはデラウェアに、スペインはフロリダに植民地を築いた。

【コロンブス・デー】10月の第2月曜日で、コロンブスのアメリカ発見を記念する日である。しかし、この日はインディアンに対する領土略奪と虐殺の始まりの日でもあり、先住民を祝福する日(先住民の日)にもなっている。

メイフラワー号(the Mayflower)

 

 

 

 

 

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メイフラワー号(プリマス Plymouth)

 1620年9月、イギリス国教会の弾圧を受けた清教徒102人は、メイフラワー号でイギリス南西部プリマスから新天地アメリカに旅立った。66日の苦難の航海の末、マサチューセッツ州プリマスにたどり着いた。彼らはピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers)と呼ばれる。そして、「法に服従する」ことを誓ったメイフラワー誓約(Mayflower Compact)に41人が署名した。この文書がアメリカの国の形となった。

 見渡す限りの荒野に降り立った彼らは厳しい冬を迎えた。寒と病気のため半数以上の人が死亡した。インディアンの助けによって生き残った人々は理想社会の建設に向ってひたすら働いた。ほどなく、インディアンとの紛争が始まった。当初は友好的だった彼らも増え続ける移民に土地を奪われ怒りを爆発させた。入植者達は、邪魔者となったインディアンを虐殺した。この征服戦争は1890年まで続いた。

【感謝祭(Thanksgiving Day)】ピルグリムファーザーズの最初の収穫を記念する行事。インディアンの助けによって厳しい冬を乗り越えた彼らは、翌秋に多くの収穫に恵まれた。彼らはインディアンを招待し、神の恵みに感謝して一緒に食事をとった。この日(11月の第4木曜日)はアメリカの祝日で、七面鳥を食べる習慣がある。

【ピューリタン(Puritan)】イギリス国教会の改革を唱えたプロテスタント(カルヴァン派)のグループ。清教徒革命(ピューリタン革命)など市民革命の担い手となった。清潔、潔白などを表すPurityに由来する。

北米植民地戦争
インディアン戦争(フレンチ・インディアン戦争)

 やがて東海岸に13のイギリスの植民地ができた。一方、北のカナダや西のルイジアナはフランスの植民地だった。そのため、ヨーロッパでイギリスとフランスが戦うと、植民地でも戦争が始まった。ヨーロッパの七年戦争の時は、北米ではフレンチ・インディアン戦争が戦われた。この一連の植民地における戦争は北米植民地戦争といい、敗れたフランスはカナダをイギリスに、ルイジアナをスペインに奪われた。戦争が始まるとインディアンは、英仏のどちらにつくかを迫られ、どちらが勝っても領土は没収された。北米東海岸を制圧したイギリスは、インディアンを追いながら西へ領土を拡大していった。

 イギリスは自国の経済を保護するため、植民地の工業化や海外貿易を禁じた。また、印紙法タウンゼンド諸法などを制定して植民地に重税を課した。タウンゼンド諸法とは植民地に輸入された茶、紙、塗料、鉛、ガラスなどに課税する法律である。植民地側はこれに強く反発した。

ボストン茶会事件(Boston Tea Party)
茶会事件のデモンストレーションが行われている
(ボストン港)

 1773年、大量の紅茶を積んだ東インド会社の船がボストンに入港した。茶税に不満を持つボストン市民は茶の荷揚げを拒否しイギリスに戻るよう要求した。船は荷揚げのチャンスをうかがいながらボストン港に停泊し続けた。

 これに怒ったボストン市民は停泊中の船を襲い、「ボストン港をティーポットにする」と叫びながら342個の紅茶箱を海に投げ捨てた(ボストン茶会事件)。イギリスはさらに圧力を強めてきた。13植民地の代表はフィラデルフィアで第1回大陸会議を開き、イギリス製品をボイコットすることを決めた。

【13植民地(Thirteen Colonies)】独立順
・1787年:デラウェア、ペンシルベニア、ニュージャージー
・1788年:ジョージア、コネティカット、マサチューセッツ、メリーランド、サウスカロライナ、ニューハンプシャー、ヴァージニア、ニューヨーク
・1789年:ノースカロライナ
・1790年:ロードアイランド

大陸会議が行われたホール
(フィラデルフィア)

アメリカ独立戦争(The American Revolution)

 

 

 

 

 

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1776年7月4日、独立宣言が読み上げられたマサチューセッツ州会議事堂(ボストン)

 1775年4月、ボストン郊外のレキシントン(Lexington)とコンコード(Concord)でイギリス軍と植民地軍が衝突、独立戦争が始まった。「1発の銃声が世界を変えた:shot heard 'round the world"」。寄せ集めの植民地軍は果敢にイギリス軍と戦った。イギリス軍は強力だったが兵力が少なく、ワシントン率いる植民地軍に苦戦した。

 戦いが続く1776年、大陸会議はアメリカの独立を決定し、トーマス・ジェファーソン(第3代大統領:Thomas Jefferson)らが起草した独立宣言を採択した。アメリカ軍優勢の状況をみて、フランス、スペイン、オランダもアメリカ側に付いた。イギリスは孤立した。1781年、米仏連合軍はバージニア植民地にあるイギリス軍の拠点ヨークタウンを落とした。この戦い(Battle of Yorktown)で植民地軍の勝利が確定し、イギリスはアメリカの独立を認めた(パリ条約)。1787年、アメリカ合衆国憲法が制定され、2年後に初代大統領ワシントンが選出された。

【ミニットマン】アメリカ独立戦争当時からの民兵組織で、招集されたら1分(minute)で駆けつけるからその名がついた。
【コーヒーの普及】ボストン茶会事件後、アメリカでは紅茶をボイコットする者が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。

米英戦争
(1812年)

自由の鐘(Liberty Bell フィラデルフィア)

この鐘は大陸会議の開催やレキシントン・コンコードの戦いを知らせるために鳴らされた。また、人間の自由と平等を謳った独立宣言文が読み上げられた時にも鳴らされた(1776年7月8日)

 第3代大統領トーマス・ジェファーソンは、ナポレオンルイジアナの買収を提案し、破格の価格1500万 ドルで購入した(1803年)。ルイジアナはミシシッピ川流域のアイオワ、アーカンソー、オクラホマなど15州にまたがる広大な土地で、アメリカの領土は一気に倍増した。

 その数週間後、ナポレオン戦争が始まりフランスとイギリスは開戦した。アメリカは中立の立場をとった。イギリスはナポレオンの大陸封鎖令に対抗して逆封鎖を行い、アメリカの農産物輸出は大打撃を受けた。アメリカはイギリスに宣戦布告し、米英戦争が始まった。

 戦いは五大湖やカナダ、大西洋における海戦、イギリスを支援するインディアンとの間で行われた。互いに決定打を欠いたまま両国は疲弊し、1814年12月に講和した。アメリカはインディアンから広大な土地を奪った。

【アメリカ国歌(Star-Spangled Banner:星のきらめく旗)】メリーランド州ボルチモアのマックヘンリー要塞に立てこもったアメリカ軍に、イギリス軍は激しい艦砲射撃を加えた。アメリカ軍はこれに耐えた。翌朝、砦の上にひるがえる星条旗を目にしたスコット・キーは、星条旗を称える詩を詠んだ。後にメロディがつけられてアメリカ国歌となった。

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