フランク王国
メロヴィング朝
(Merowinger)

 ゲルマン民族の一派フランク族は、ローマ帝国が弱体化すると徐々にガリア(フランス)に侵入し、勢力を拡大していった。西ローマ帝国滅亡後もガリアはローマの司令官シャグリウス(Syagrius)が支配していた。しかし、フランク族のクローヴィス1世(Clovis)が反旗を翻し、ソワソンの戦いでシャグリウスを破った(486年)。これにより、ローマ人によるガリア支配は終わり、クローヴィスは周辺のブルグンド族西ゴート族を駆逐してガリアの支配者となった。

 496年、クローヴィスは王妃クロティルダ(Clotilda)の勧めでランス大司教サン・レミから洗礼を受け、キリスト教に改宗した。これ以後、歴代のフランス王はランスで戴冠式を行うようになった。他のゲルマン諸族は異端のアリウス派を信仰していたが、フランク族は正統のアタナシウス派だったため、ローマ系住民やカトリック教会と良好な関係を保つことができた。

 508年、彼は北ガリアにパリを首都とするフランク王国を建設した。クローヴィスの祖父の名はメロヴィクスで、その名前からこの王朝はメロヴィング朝と呼ばれた。



クローヴィスの洗礼(ランス サン・レミ・バジリカ聖堂)

宮宰

 クローヴィスの死後、王国は4人の子によって分割された。その後、統一・分裂を繰り返しながら王権は衰え、宮宰(補佐役)の力が強くなっていった。

 カロリング家の祖であるピピン1世(大ピピン、Pippin)は、宮宰としてフランク王を支えた。彼の孫ピピン2世(中ピピン)は王国の実権を握り、宮宰職を世襲化した。その子供が、カール・マルテル(Charles Martel)で、720年に宮宰に就いた。

  その頃、アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム軍は、711年に西ゴート王国を滅ぼし、さらにピレネー山脈を越えて南フランスに侵入した。720年にナルボンヌを占領、ここを基地としてカルカッソンヌ、ニームを攻略した。



ローランの歌の舞台となったサラゴサのピラール広場

トゥール・ポワティエ間の戦い

 

 

 

 

 

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 イスラム軍はボルドーを攻略後、ポワティエの聖イレーヌ教会を略奪、トゥールの聖マルチン聖堂(SaintMartin)に向かって進軍してきた。カール・マルテルはこれを向かい撃ち、7日にわたる激戦の末に撃退した。これがトゥール・ポワティエ間の戦いである(732年)。フランク軍はヨーロッパとキリスト教世界を守った。

イレーヌ教会(ポアチエ)
マルチン聖堂(トゥール)


トゥール・ポワティエ間の戦い
カロリング朝

 戦いに敗れたとはいえイスラム軍は依然として強力だった。進路をフランス西部から南東部にとり、734年にアルルとアヴィニヨンを攻略した。

 カール・マルテルがプロヴアンス地方からイスラム教徒を追い払ったのは738年になってからで、息子のピピン3世がナルポンヌを奪回したのは751年だった。これ以降、イスラム勢力はイベリア半島に封じ込められた。

 カール・マルテルは、737年から742年の間国王を置かずに王国を統治し、フランク王国の実権を握った。彼の死後、息子のピピン3世(小ピピン)が宮宰となり、751年にメロヴィング朝最後の皇帝を廃して王位につき、カロリング朝(Karolinger:751〜987)を開いた。

 

ナルボンヌの大聖堂(フランス)
ローマ皇帝の戴冠

 教皇ザカリアスは、このクーデターを承認した。次の教皇の時、ローマ教会保護のためイタリアに出兵しランゴバルド族(またはロンゴバルド)を討伐、奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した。これはピピンの寄進と呼ばれ、教皇領の起源となる。

 768年 ピピンの子カール大帝(シャルル・マーニュ)が王位につき、774年にイタリアのランゴバルド王国を征服する。778年、スペインのサラゴサを攻撃、その帰路にピレネー山中でバスク人の攻撃を受けた事件が、ローランの歌になった。その後ザクセンやアジア系のアヴァール王国(Avars) を征服し、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパを統一した。

 800年12月25日、カール大帝は教皇レオ3世によりローマ皇帝の戴冠を受けた。これは西ローマ帝国の復活であり、この復活は人々が渇望していたものだった。

 バルセロナ地方にはヒスパニア辺境領を設けた。この辺境領はその後アラゴン・カタルーニャ連合王国(単にアラゴン王国ともいう)となり、イベリア半島東部から南イタリアを領有する地中海国家として発展した。1479年にはカスティーリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドが結婚しスペイン王国ができた。


城塞都市カルカソンヌ(フランス)
フランク王国の分裂

 王国は相続争いによって衰退し、843年のヴェルダン条約で三分割され、数年後のメルセン条約により中部フランク王国が東・西フランク王国に併合された。

 異民族の侵入は激しく、ノルマン人やマジャール人が王国内を荒らしはじめる。911年には、西フランクの一部にノルマンディー公国が興る。

 やがて、それぞれの王国でカロリング家は断絶し、イタリア王国、ドイツ王国、フランス王国が誕生した。西フランクは987年にユーグ・カペーによるカペー朝フランス王国が始まり、東フランクではドイツ王国のオットー1世が962年に戴冠して神聖ローマ帝国となった。

 西ヨーロッパは混乱し、再び暗黒の時代となった。


フランク王国の分裂
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カペー朝→ 

【参考資料】