スリランカの歴史
スリランカ
(Sri Lanka)

 スリランカとは、光り輝く(Sri)、ランカ島(Lanka)という意味である。古代インドの叙事詩ラーマーヤナにも記述されている。スリランカはBC483年、インドからシンハラ族(Sinhala)のヴィジャヤ王子が移住し、アヌラーダプラ王国(シンハラ王朝)を作ったことに始まる。王都はアヌラダープラ(Anuradhapura)。BC3世紀にアショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝え、現在もその信仰が続いている。

 477年には王子のカッサパ1世がクーデターを起こし首都をシギリヤに移した。その後クーデターは鎮圧されシギリアも廃墟となったが、岩山に築かれた宮殿は残り世界遺産となっている。

 13世紀になると南インドのタミル人の侵入が激しくなり、北部から王都は中部や南部へと移動した。タミル人はヒンドゥー教徒であり、仏教徒のシンハラ人と対立が深まった。この頃マルコ・ポーロが来島し、東方見聞録に記録を残している。14世紀にはイブン・バットゥータが来島、1410年には鄭和が来島し、形式的にの朝貢国となった。

 王国は14世紀ごろから衰退したが、1815年にイギリスの植民地になるまで存続した。第二次世界大戦後の1948年に独立し、首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(スリ(聖なる)・ジャヤワルダナ(勝利をもたらす)・プラ(都市)・コッテ(街の名前)、通称はコッテ(Kotte))である。


スリランカ

植民地支配

 

 

 

 

 

 

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 大航海時代が始まると、ポルトガル人が来航しコロンボやゴールに砦を建設した(1505年)。17世紀になるとオランダ東インド会社がポルトガルの貿易拠点を次々と奪い、スリランカもオランダの植民地となった(1658年)。

 フランス革命によってオランダ本国はフランスに占領された。その隙にイギリスは各地のオランダの植民地を侵略した。スリランカもイギリスに占領され、1802年のアミアンの和約で正式にイギリスの植民地となった。1815年、イギリス軍は島の中央に残っていたキャンディ王国を滅ぼし、全島をイギリスの植民地とした。

 イギリスの植民地になるとジェームス・テラーやトーマス・J・リプトン等は紅茶のプランテーションを経営した。プランテーションの労働力として南インドから約100万人のタミール人を移住させ、セイロン紅茶のブランドで世界に広まった。


ゴール(Galle)に残る古い要塞
独立

 第一次世界大戦後、スリランカにも民族自立の波が押し寄せ独立の機運が高まった。太平洋戦争が始まるとイギリスの海軍基地があったコロンボやトリンコマリーが日本軍の爆撃を受けた。

 第二次世界大戦後の1947年、イギリスはインドから撤退し、翌1948年にスリランカの独立が実現した。国名はセイロンで、1978年に大統領制に移行しスリランカ民主社会主義共和国に国名を改めた。

 1983年から2009年にかけてタミル人の反政府組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)が分離独立を求めて内戦が始まった。この内戦は26年にわたって争われたが、最後が政府軍がLTTEを制圧して終結した。


コロンボの町

ジャヤワルダナ
(Junius Richard Jayewardene)

 

 

 

 

 

 

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 1951年のサンフランシスコ講和会議において、多くの戦勝国は日本に対する賠償請求と制裁措置を求めた。特にソ連は「日本に平和や自由を与えず、国を分割して統治すべき」と、米ソ英中の4ヶ国で分割する案を提唱した。その案に真向から反対したのが出席国の中で最も弱小のスリランカ(当時はセイロン)だった。

 後にスリランカ大統領となったジャヤワルダナは、同じアジアの仏教国という立場から、仏陀の言葉を引用して参加国に寛容の精神を求め、日本に対するいかなる制裁にも反対し日本の完全独立を認めて国際社会の一員として迎えるべきだと説いた。

 仏陀の言葉:「憎しみは憎しみによって止まず、愛によってのみ止む(hatred ceases not by hatred, but by love)」日本を救ったブッダの言葉、鎌倉大仏殿高徳院資料より

 サンフランシスコ講和条約締結後、一番早く日本と外交関係を結んだのはスリランカだった。ジャヤワルダナ氏は1996年に死去したが、その際彼の角膜が提供された。「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言があり、彼の片目は日本に贈られた。


ジャヤワルデ氏の顕彰碑(鎌倉 高徳院)

 裏面の顕彰碑誌にはブッダの語録を集めた仏典ダンマパダ(Dhammapada)の言葉が記されている。

天空の城ラピュタ

【アダムスピーク(Adam's Peak)】スリランカ語でスリーパーダ。聖なる足跡が残っている4大宗教共通の聖地。この足跡は各宗教で次のように信じられている。
・仏教徒:仏陀がスリランカを訪れた時に残したもの
・キリスト教徒:南インドを訪れた聖トマスのもの
・ヒンドゥー教徒:シヴァ神のもの
・イスラム教徒:アダムが地上に降りた時のもの

【アダムスブリッジ(Adam's Bridge)】インドとスリランカをつなぐように海に向かって伸びている砂州。インド古代の英雄ラーマ王によって作られたという。ラーマを主人公とした叙事詩ラーマーヤナの中で、ランカ島(スリランカ)に住む魔王にさらわれたシータ姫を救うため、ランカ島へ橋をかけ(アダムスブリッジ)、猿軍の王らとともに攻め込む。ラーマは魔王を滅ぼして姫を救出し、故国に戻ってめでたく王に就いたといわれている。シーターは天空の城ラピュタのヒロインであるシータのモデルである。


天空の城ラピュタ
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【参考資料】