第二次世界大戦(World War U)
あらまし

 第二次世界大戦は、1939年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻から、1945年8月15日(または9月2日)の日本降伏まで6年間続いた戦争である。日独伊三国同盟を中心とする枢軸国と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエトなどの連合国との間で戦われた人類史上最大の戦争である。当初は枢軸国側が優勢だったが、ヨーロッパ戦線や太平洋戦線で連合国側が反攻に転じ、1943年にイタリアが降伏、1945年5月にドイツが降伏、8月に日本がポツダム宣言を受諾して終結した。日本が降伏文書に調印したのは9月2日のことである。

 第一次世界大戦と同様に国家総力戦だったが、第二次世界大戦では航空機や戦車、潜水艦を用いた機動戦が行われ、レーダーやジェット機、原子爆弾などの新兵器が使われた。大量破壊兵器の発達で、この戦争での死者は約5500万人、そのうちの半分以上の約3000万人が民間人である。ドイツは、自国および占領地でユダヤ人に対してホロコースト(The Holocaust)と呼ばれる大量虐殺を行い、600万人のユダヤ人が犠牲になった。


ポーランドに侵攻するドイツ空軍

ヴェルサイユ体制

 第一次世界大戦が終結し、講和条約ヴェルサイユ条約が締結され、国際連盟が設立された。1928年にはフランスの外相ブリアンとアメリカの国務長官ケロッグがパリ不戦条約を提唱し、米、英、仏をはじめソ連、ドイツ、日本など15カ国が調印した。この条約は戦争を否定するもので、その後63ヶ国が参加する国際条約となった。人々は平和な時代が到来すると感じていた。

 ところが1929年10月24日にニューヨークの株価が大暴落した(暗黒の木曜日)。アメリカをはじめアメリカ経済に依存していた世界中の国々が不況に陥り、いわゆる世界恐慌(大恐慌:The Great Depression)が始まった。ようやくインフレから脱却しつつあったドイツ経済はどん底に突き落された。職を失った多くのドイツ人は過激な民族主義を煽る右派政党に傾倒していった。特にヒットラーが率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、国民に鮮烈なイメージを与え、1932年の選挙で第一党に躍進した。翌年、ヒンデンブルク大統領が死去するとヒトラーは大統領と首相の職務と合体させた総統の地位に就き独裁政治を始めた。


ヒンデンブルクと握手するヒトラー(1933年3月)

戦争の始まり

 

 

 

 

 

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 世界恐慌は、第一次世界大戦の戦勝国である日本やイタリアにも押し寄せた。日本はそのはけ口を満洲(中華民国東北部)に求め、柳条湖事件をおこして満州国を独立させた(1932年 満州事変)。国際連盟は日本の侵略を非難するが、日本はそれを無視して国際連盟を脱退し、今度は本格的に中国を侵略し始めた(1937年 日中戦争)。

 1935年、イタリアのムッソリーニエチオピアに侵攻し、国際連盟の反対を無視してエチオピアを併合した。エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリスに逃れ亡命政府を樹立した。さらに1937年に国際連盟を脱退し、1939年には第一次大戦後イタリアの委任統治領となっていたアルバニアを併合した。

 ドイツのヒットラーは1935年にヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。翌年には非武装地帯のラインラント(Rheinland)に進駐し、1938年にオーストリアを併合した。この頃ドイツとイタリアは急速に接近し、ムッソリーニはベルリン・ローマ枢軸を宣言した。


閲兵するムッソリーニ(1945年)
ミュンヘン会談から第2次世界大戦へ

 オーストリアを併合したヒットラーは、多くのドイツ人が居住するチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求した。チェコスロヴァキアは第一次世界大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国から独立した国家である。1938年9月、この要求に対応するためイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が会談した(ミュンヘン会談)。イギリスとフランスは戦争を回避するため、これ以上の領土要求を行わないことを条件にヒトラーの要求を認めた。この会議にチェコスロヴァキアは参加できなかった。

 ヒトラーはズデーテンにドイツ軍を進駐させ、翌年にはチェコスロヴァキアを分割してチェコ部分をドイツの保護領に、東半分のスロヴァキアをドイツの保護国とした。さらにリトアニアからドイツ騎士団が建設した町メーメル(現在のクライペダ)を割譲させた。

 さらにヒトラーは世界の意表をついてソ連と独ソ不可侵条約を結び、ポーランドにベルサイユ条約で奪われたダンツィヒの返還を要求した。ポーランドはこれを拒否、ドイツはポーランドに侵攻した。ただちにイギリス、フランスがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まった(1939年9月1日)。

 ドイツ軍はポーランド軍を圧倒し、東へ追い詰めた。9月17日、突然ソ連軍がポーランド東部に攻め込んできた。これは独ソ不可侵条約のポーランド分割に関する秘密議定書に基づくものだった。東西から攻められたポーランドは10月6日に降伏し、国土は独ソ両国によって分割された。

緒戦

 ポーランド分割後、ソ連はフィンランドやルーマニアの一部の領土を獲得し、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国に進駐した。

 1940年4月になるとドイツはデンマーク、ノルウェーに、5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵入した。そしてフランス軍の防御が手薄なベルギー南東部のアルデンヌの森から装甲部隊がフランスに進軍した。不意を突かれた英仏連合軍は混乱し、英仏海峡のダンケルクに追い詰められた。30万の連合軍はあらゆる船舶を調達してイギリス本土へ撤退した。

 ドイツ軍はパリに無血入城した。フランスのフィリップ・ペタン元帥は休戦を申し入れ、6月22日にコンピエーニュの森で休戦条約が調印された。この森は第一次世界大戦の休戦協定が調印された場所である。フランス北部はドイツの占領下におかれ、ペタンを首班とする新しい政権はフランス中部のヴィシーに移転した(ヴィシー政権)。前国防次官シャルル・ド・ゴールはイギリスに亡命し、自由フランスという組織を立ち上げてドイツに抵抗した。


パリに入城するドイツ軍

ロンドン大空襲(ザ・ブリッツ the Blitz)

 

 

 

 

 

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 フランスを制圧したドイツは、イギリス侵攻を目指して大規模な爆撃を始めた。ドイツ空軍は連日出撃し、多くの都市を爆撃した。特にロンドンに対する攻撃はすざましく、57日間連続して爆撃が行われた。ロンドン市民は地下鉄の駅構内に避難した。

 圧倒的に優勢なドイツ空軍に対して、イギリスはドイツ空軍の襲来を探知するためレーダー網を整備した。敵の来襲を察知すると、戦闘機を緊急発進させて迎撃した。イギリス空軍の必死の防空戦によってドイツ空軍は予想外の損害を蒙った。そして、9月に予定していたイギリス上陸作戦は延期となり、結局そのまま立ち消えとなった。

 1942年になると有人の爆撃機に代わって無人のミサイル兵器による攻撃が行われた。これは空軍が開発した巡航ミサイル型のV1号と陸軍の弾道ミサイル型のV2号の2種類である。V1号は8000発を発射し、目的地に2400発が到達した。V2号は4000発を発射し、1000発が到達した。しかし、戦局を覆すような戦果を上げることはできなかった。V2号の設計者は、のちにアメリカ最初の人工衛星エクスプローラ1号の設計者フォン・ブラウンだった。


テムズ川に架かるタワーブリッジ
タワーブリッジはドイツ空軍の爆撃目標となった。1944年8月にはV1号が命中した。
アフリカ戦線

 1940年9月、ドイツの要請を受けたイタリアは、植民地のリビアからイギリスが支配するエジプトに侵攻した。イギリス軍は反撃体制を整えるため一旦前線から撤退した。イタリア軍は国境から100km東まで進撃した。12月になると戦力を蓄えたイギリス軍の反撃が始まった。イタリア軍は13万人が捕虜となる完敗を喫し、リビアに押し戻された。ムッソリーニはドイツに救援を求めた。

 1941年2月、ドイツはロンメルを指揮官とするアフリカ軍団をリビアに投入し、イギリス軍に占領されたベンガジトブルクを奪還した。イギリス軍は再びエジプトに撤退し、エル・アラメインに防御ラインを敷いた。

 1942年6月、ロンメルは総攻撃を開始し、連合軍を次々と撃破しながらエル・アラメインに迫った。しかし、連合軍はアメリカから続々と送り込まれた最新の戦車や兵器で武装していて、ドイツ軍は甚大な損害を受けた。さらに補給の問題が追い打ちをかけた。物資はイタリアからトリポリに陸揚げされ、エル・アラメインに陸送されていたが、補給線が延びすぎてイギリス空軍の餌食となった。ついにドイツ軍の進撃は止まった。

 10月に連合軍の総反撃が始まった。戦力を消耗したドイツ軍は持ちこたえることができず、リビアを越えてチュニジアまで撤退した。連合国軍はモロッコやアルジェリアに増援部隊を上陸させ西からドイツ軍を攻撃した。1943年5月、チュニスを占領されたドイツ軍は降伏し、27万5000人が捕虜となった。


北アフリカ戦線で敗れたイタリアは、アフリカの植民地リビアとエチオピアを失った。1943年7月、連合軍はシチリアに上陸しイタリア本土に進軍した。ムッソリーニは幽閉され、9月にイタリアは降伏した。

独ソ戦(German-Soviet War)

 ヒトラーはロンドン大空襲のころからソ連との戦争準備を進めていた。1940年10月にはルーマニアを占領、続いてバルカン半島に進出し、ユーゴスラビアやギリシャも占領した。スターリンはドイツの動きをつかんでいたが、黙殺した。独ソ不可侵条約を信じ込んでいたのである。

 1941年6月、330万のドイツ軍が一斉にソ連国境を越えた(バルバロッサ作戦)。ドイツ軍はレニングラード(現サンクトペテルブルク)を目指す北方軍集団、モスクワを目指す中央軍集団、ウクライナのキエフを目指す南方軍集団に分かれて進軍した。ドイツ軍は各地でソ連軍を撃破し、レニングラードを包囲(この包囲は900日間続いた)し、キーウを攻略、モスクワに迫った。ドイツとともにイタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、クロアチアも参戦した。日本にも参戦要求があったが、日本は仏印進駐を優先した。

 ドイツ軍の快進撃でヒットラーは短期間にソ連を征服できると確信した。しかし、補給路は延び、冬が例年より早く訪れて進撃は止まった。9月にモスクワ総攻撃が始まったがソ連軍の必死の抵抗によって落とせなかった。


ソ連に侵攻するドイツ軍
ソ連軍の反攻

 1942年、モスクワを死守して自信をつけたスターリンは全戦線で反撃を命じた。しかし、ドイツ軍は強力で作戦は失敗した。6月になるとヒットラーはコーカサスの油田の獲得とスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の制圧を命じた。ドイツ軍は順調に進撃し、油田地帯の町マイコプを占領した。しかし、ソ連軍は油田に火をつけ、決戦を避けて早めに撤退した。ドイツ軍の補給路は伸び燃料不足で進軍が止まるとソ連軍の反撃が始まった。ドイツ軍は何も得るものがなく撤退した。

 一方、スターリングラードを包囲したドイツ軍は市内に突入し市街地の90%を占領した。ソ連軍は徹底した持久戦を展開し、建物一つ、部屋一つを奪い合う血みどろの市街戦は冬にもつれ込んだ。ドイツ軍が攻めあぐんでいる間にソ連軍の別動隊がスターリングラードを逆包囲し、補給路を遮断した。ドイツ軍は日ごとに消耗し1943年2月に降伏、約10万人が捕虜となった。

 スターリングラード攻防戦は独ソ戦の転機となり、以後ドイツ軍が攻勢に出ることはなかった。ソ連軍は1943年7月にクルスクで史上最大の戦車戦(両軍合わせて6,000台の戦車)を制し、秋にはキーウを奪還した。


スターリングラード攻防戦
ノルマンディ上陸作戦

 1944年6月、連合国軍はフランスのノルマンディに大規模な上陸作戦を敢行した。この作戦で1週間に50万の兵員が上陸し、8月にはパリを解放、10月にはドイツ本土の都市アーヘンを占領した。ドイツ軍は残存戦力を結集して最後の反撃を試みたが、連合軍に敗れた(バルジ作戦:バルジとは突出の意味)。

 一方のソ連軍は6月から反撃を開始しソ連全土を解放した。ドイツ中央軍集団は28個師団を喪失する大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻された。7月にはポーランド臨時政府(ルブリン政権)が樹立された。ソ連軍はワルシャワから10kmの地点に進出し、ポーランドに蜂起を呼びかけた。ポーランド軍はそれに呼応して武装蜂起したが、ソ連軍の支援はなくドイツ軍に鎮圧された(ワルシャワ蜂起)。

 続いてフィンランド、ルーマニア、ブルガリアが枢軸国から脱落してドイツに宣戦した。12月にはハンガリーを占領し、東プロイセンやオーストリアに進撃した。4月にベルリン攻略が開始され、ヒトラーは4月29日に自殺、5月8日にドイツは無条件降伏した。


ノルマンディに向かう連合軍艦隊
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【参考資料】